
山本三和人牧師
MESSAGE
山本三和人牧師によるショートメッセージをご紹介します。
心の安らぎ
それはもう何十年も前、私が洗礼を受けて間もない頃のことです。
ある有名な盲人伝道者が特別伝道集会の講壇にたち「お寺の鐘はGONEと鳴り、教会の鐘はCOME INと鳴る」と話しているのを聞いて感心したり、反発を覚えたりしたことがあります。つまり、その伝道者によれば、お寺の鐘のGONEという音色は、何もかもがいってしまったことを伝える音であり、そこには、はかなさはあっても安らぎがない、というのです。
私は「さすがにうまいことをいう」と感心すると同時に「でもお寺の鐘のGONEは聞きようによっては、人間のすべての不浄や悲しみが、はるか彼方に行ってしまったことを伝える音にも聞こえるし、
もしその音をGO ONと聞き取ることができれば、それは私たちにたゆみない前進を促す音にも聞こえるのではないだろうか」と、ちょっと反発めいたことも感じました。
すでに、よく知られているように、ご自身が伝道を始められた頃のイエスは、出会う人々に向かって必ず“COME”と語りかけておりましたが、復活されてからは逆に“GO”といわれるようになりました。
私たちはイエスのやさしい“COME”と神人キリストの厳しい“GO”の間にたたされていることがわかります。
そして私たちは、さまざまな思い、わずらいを抱いて毎日の生活を営むことで疲れきっていますから、“GO”という厳しいことばよりも”COME"というやさしいことばのほうに強くひきつけられるのです。
信仰は私たちのもっている神ごころとか、宗教心とか、宗教性などの働きではありません。信仰は聖霊のみ業です。信仰認識は聖霊認識です。(『続・文学的神奉仕』)
序
(ロゴス往来 『聖書の世界』1996年発行)
私たちが用いている聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれていますが、イエスがおいでになったころには新約聖書はありませんでした。新約聖書は紀元50年から150年くらいの間に書かれたものと思われますが、旧約聖書とともに正典(教会と信仰生活の規範)に定められたのは紀元397年のカルタゴ会議においてでありました。キリスト教会は、どのような基準で沢山の文書のなかから66の異なる文書を選んで正典に定めたのでしょうか。それは、そのいずれもがキリストを証する文書であるという、ただそれだけの理由によるものです。
どの文書も、読者をキリストに導き、キリストに出会わせ、キリストを教会の主・世界の主と告白して、キリストとともにおるためのキリストの証しであるということで、正典として公認されたのが聖書です。どんなに聖書に親しんでも、どんなに聖書の戒めを重んじても、私たちを主イエス・キリストに導かないばかりか、私たちにキリストを不要と思わせるような聖書の読み方は、決して正しい読み方ではありません。パリサイ人たちのように律法の行いによって救われたり清められたりすると思い、 律法に親しみ、律法を重んじることでも、学ぶことでもありません。神の律法の戒めを行うことの出来る人には贖罪者キリストは要らないのです。
「ヨハネによる福音書」第5章にイエスが38年もの間、病気に悩んでいた人を「起きてあなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」と、癒してあげられた話が記されています。その日が安息日だったため、ユダヤ教徒たちから非難の声が上がりますが、イエスは「この聖書(旧約聖書)は、わたしについて証しするものである」とお告げになります。旧約聖書もキリストを指し示すキリストの証しであるならば、それはキリストの光を当てて読みときにおいて、はじめてその意味と役割を正しく理解することが出来るのです。
神がおつかわしになったキリストを信じない人は、どんなに律法を重んじても、どんなに律法に忠実な宗教生活を営んでも、神の言としての律法そのものは、その人のうちには留まりません。イエスが指摘されたパリサイ人や律法主義者の誤りは、イエスを信じないで、律法に忠実な宗教生活が送れると思ったことです。律法もまたキリストの証しであることを忘れてはなりません。
聖書は『預言書』も『律法』も、神の啓示、すなわちキリストの光のもとにおいてのみ正しく理解されます。 正しく理解しないで、キリストが教会と世界の主であることを告白する信仰を与えられることはけっしてありません。パリサイや律法学者たちがキリストを裁きにかけ、極刑に処したのを見れば、そのことがよくわかります。
正典としての聖書の読み方について、私たちの陥りやすい過ちについて述べておきます。キリスト教は、ユダヤ教の経典としての聖書に旧約という言葉をつけて、新約聖書と共に正典として公認しています。そのためかどうか、キリスト教の福音の理解は、ユダヤ教の経典としての聖書の理解と認識によって助けられると考えている人がいます。また聖書を先に経典として用いたのはユダヤ教であるから、ユダヤ教の経典としての聖書の理解と知識が、新約聖書の理解と認識を深めると思っている人もいます。またイエスにはイスラエル人の血が流れていたということで、キリスト教がユダヤ教を母体として生まれた宗教であり、従ってユダヤ教についての知識がキリスト教の理解の助けになると思っている人もいるようです。
しかし、キリスト教は、主イエス・キリストを教会と世界の主と告白する人々の教会組織です。預言者たちは期待のかたちでイエスの証しをしましたが、使徒たちは聖霊の導きによる想起のかたちで、イエスが教会と世界の主であることを証しました。それががイエス・キリストについての証であるなら、キリストの光の下に聞き、かつ読むべきです。
旅
現代の人々の旅へのあこがれの中に「ここ以外のどこかへ一度でもいいから行ってみたい」という願いが含まれているとすれば、これは警戒が必要です。家の中から家の外へのあこがれは、都会から自然へのあこがれに通じ、さらにこの世から未来へのあこがれに通じかねないからです。
ローレンスの作品『黙示録』は、彼の時代の鉱山労働者たちが、現世の苦しみが大きければ大きいほど来世の幸福は大きいのだという宗教信仰が、彼らをいつまでも貧しさとj不自由の中にとどまらせた姿が描かれています。
現世の不当な人間の条件をそのまま温存することに奉仕するような者は、それが思想であっても宗教信仰であっても今日の世界では顧みられなくなるでありましょう。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである」(ヨハネによる福音書3:16)。
この短い言葉の中に「この世」という言葉が四回も使われています。人間は社会的存在です。信じる者が一人も滅びることがないために、その信じる人がその中に生きている「この世」を愛して、これに御子を与え、御子をとおしてこれを救い給うた、というこの言葉は、私たちの救いが、決してひとり子の主観的観念論ではないことを表しています。
終末信仰
私たちの「信仰」が、刻々と沈みつつある現世というおんぼろ舟から、神の国という永遠の不沈艦に乗り換えるためのパスポートやビザであるとするならば、その教会に連なり、教会の中の営みに加わって、静かに祈りのうちに神の国という不沈艦の到来を待てばよいでしょう。
もう現世という難破船など眼中に入らなくなります。このような終末信仰は、私たちから現世の世界に対する興味と関心を奪って、私たちを世界の中で孤立させてしまいます。
人間の時と神の時とを一本の水平線上につないで、AからBまでの線で人間の時を表し、BからCまでの線で神の時を表し、A-BとB-Cの間に、キリストの再臨や最後の審判を置くような終末信仰では、信者のひとりよがりの安らぎや救いは得られても、人間の世界の客観的な現実的な救いをもたらすことには役立ちません。
万物が終わって新しいはじまりが始まるのではなく、むしろ、新しい世界がはじまって万物が終わるのです。人間の水平史は神の救済史の働きがなければいつまでも終わることはありません。
いつまでも続く人間の水平史の中に神が降りて来給う時、即ち神の時が上から下へ垂直に人間の水平史に関わってくる時、その時、そこで古き人間の歴史と古き人間の世界が終わるのです。
このような中味をもつ終末信仰にして、はじめて私たちの現実の人間関係に変革を迫ることができるのです。
「新しい創造」(パウロ)です。
悪魔に仕える教会
中世は一見、神の栄が最も強く地上に現れた時代であったように見えます。しかし、中世の意味中心の位置を神に代わって人間の組織としての教会が占めてしまうと、その組織の維持のために、神に仕えるポーズの裏で、悪魔に仕える教会の姿となりました。
中世の教会は、キリスト教が毅然として拒絶した悪魔の第三の誘惑を受け入れ、政治経済の全領域に及ぶ主権と支配を欲しいままにしたのです。教会がキリストの体であることは間違いありませんが、同時にそれは人間の組織であることも事実です。
人間は、霊においては神に仕え、肉においては罪もしくは悪魔に仕えている者であることを忘れ、神の法廷の被告席を離れ、原告の席についたり、裁きの人の席を占めたりするようなことにでもなれば、教会は歴史の中の過ちを再び繰り返すことになります。
K・バルトは「はじめに人間が組織をつくり、あとで組織が人間の自由を束縛する」と言っていますが、人間の組織としての教会も、組織としての発展と成長を遂げていく中で、キリストの愛の賜物としての自由を信徒大衆の手から奪って、彼らを「奴隷のくびき」につなぐような過ちを犯すことがないようにしなければなりません。
それには、私たちが「心では神の律法に仕えているが、肉においては罪に仕えている」という人間の真実を心にとめて、「思い上がること」なく、あくまでも謙虚に思い、語り、かつ振舞いたいと思います。
断絶
人類が直面してきた「断絶」の第一は、人間と神との断絶です。
そして、第二は人間における当為存在と現実存在の断絶であり、第三は人間と人間を隔てる断絶です。
そして、これらの三つの種類の「断絶」は、それぞれ異なった原因によってつくり出される三つの別々の現象ではなく、一つの基礎的事実によって必然的につくり出される異現象です。
古代や中世に、神と人との再結の道としての宗教が、他の事柄よりも重んじられていたのは、人間と神との「再結」すなわち断絶の克服なくしては、あらゆる人間の「断絶」の克服は得られないと信じていたからです。
しかし、人類がたくましい意志の力を発揮して、自らを神の支配から解放し、自分のことを自分で主体的に解放する道を選んでから、早くも数百年が流れました。そして、人類が自ら蓄えた知識と、習得した技術と、開発した文明の利器によって、人間を隔てる溝を埋め、壁を壊し、文字通り輝かしい自由と平和と繁栄の理想を実現する日も遠い将来のことではないように思われたこともあります。
しかしここまで辿ってきた旅路の果てで人類が見たものは、いちだんと深められた人間の疎外と断絶でしかありませんでした。すなわち、神を排除することによって断絶を取り戻そうとした人類の企てが、いっそう深刻な「断絶」へと自ら追い込んでしまったのです。
行動の源泉
「私は私自身を何者にも代え難く愛することから始めねばならぬ」とは有島武郎の言葉です。自己愛はキリスト教会では悪徳として戒められていますが、人間のすべての行動の源泉とされています。
すべての行動の源泉、すなわち人生の出発点における偽りは、そこから始まる人生のすべての領域に感染します。なるほど、イエスの教え子の中には、「自分の命を得ようとする者はこれを失い、わたしのために自分の命を捨てる者はこれを得るであろう」という戒めがあります。しかし、戒めは戒めです。たとえイエスの戒めであっても、否、イエスの戒めであればこそ、いっそう厳しい戒めです。
しかし、戒めはこれを守ることによってのみ確立されるとしたら、戒めは永久に確立されません。従って、誰一人救われる者はありません。人は誰でも戒めに背いた生を営んでいるからです。戒めを確立して救いにあずかるためには、キリストにある神の愛と恵みの光を当ててみる戒めは、私たちの真実の姿を映しだして見るための鏡のようなものです。
キリストの「あなたの敵を愛しなさい」というみ言の鏡に映る私たちの姿は、その戒めに背いている姿です。それは「他の何者よりも自分自身を愛している」私たちの姿です。
神の言葉
「み言が開かれると光が射し出で無知な者にも理解を与えます」(詩篇119:130)
私たちがどんなに頭が良くどれほど真剣に探し求めても、私たち人間の目に神の姿は見えません。私たちの耳に神の御声は聞こえません。自分の力で神を探したり、その存在を証明したりしようとすると、その憶測と期待による探索が、私たちを神でない神に導くことにより、ますます私たちを神から遠ざけ、「主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕え」(ローマ人への手紙16:18)るようになります。
み言に親しみ、み言に学んで、愚かなものが悟ったり、賢くなって、神のことが何でも解るようになるということはありません。み言の意味が自分の知恵の働きで理解できれば、神のことも人間のこともすべて明らかになるといっても、自分の知恵の働きではみ言は解りません。
それは「猫の首に鈴をつけておけばその音を聞いて逃げることができる」という鼠の思いつきと同じです。ですから「み言が開かれる」ということは、私たちが自分の力でみ言葉の意味を理解するようになるということではありません。
神は私たち人間の肉の目からも心の目からも隠れた存在であり、神の言葉は封印された箱のように何が入っているか、私たち人間には解りません。その封印された箱の蓋が独りで開いて中のものがその姿を現す時にしか、その姿を見たり、その意味を理解したりすることはできません。この詩篇の言葉は神の啓示の予告です。
福音の実
バプテスマのヨハネは、洗礼を受けようとして近づいてきたパリサイ人やサドカイ人に、「悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にアブラハムがあるなどと思ってもみるな。お前たちに言っておく。神はこれらの石ころからでもアブラハムの子を起こすことができるのだ」(ルカによる福音書3:8)と申しました。
パリサイ人やサドカイ人も、アブラハムの子らとして誇り高い人々でありました。神を独占し、信仰と律法のエキスパートとしての自信をしっかりと身につけた人々でありました。
しかしヨハネは路傍の石ころを指し、神はこれらの石ころからでもアブラハムの子らを起こし給うと述べて、彼らの誇りや自信の無意味さを暴いたのです。大切なことは、自信や誇りをもつことではなく、「悔い改めにふさわしい実を結び」ということだと教えました。
パウロも言いました。「律法(神の言)を聞く者が神の前に義なる者ではなく、律法を行う者が義とされる」(ローマ人への手紙2:13)と。
律法を持つか持たないかが問題ではなく、律法を持っていても行わなければ何にもならない。律法を持っていなくても、律法で命じてあるようなことを実際の生活の中で行えば、それによって義とされるのだと述べています。このことは、信、不信にも当てはまります。
神を信じるか信じないかということよりも、あるいは福音を持つか持たないかということよりも、福音にふさわしい実を結ぶか否かということが大切であります。
野獣
フランツ・カフカは「全ての人間は鎖に繋がれている」と述べています。天の鎖と地の鎖です。人間が神に憧れ、自ら神の位に登ろうとすると、地の鎖がそれを阻みます。地の鎖は、天国に届かないようにその長さが制限されています。
逆に、人間が野獣の世界に足を踏み入れようとすれば、天の鎖がこれを妨げます。天の鎖は、野獣の世界には届かないように調整されているからです。この天の鎖と地の鎖を食いちぎったのが、私たちの中に住む野獣です。そして、この鎖を切って抑制の利かなくなった野獣のことを聖書は「罪」と名づけています。ですから罪は人間の手に負えません。罪は飼いならしたり、締め出したりすることができるほど粗野な野獣ではありません。
罪と戦って勝ち目のある人などいたためしはなく、これからもでないでしょう。罪とはげしく戦って敗れたパウロは申します。
「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にはあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と。
彼がどんなに真剣に内なる罪と戦い、どんなに惨めにその戦いに敗れたかが解ります。