
山本三和人牧師
1998年までロゴス教会の主任牧師として宣教されていた山本三和人牧師について経歴とショートメッセージを紹介いたします。
山本三和人(やまもとさわひと)牧師
(1908生まれ~2008召天)
佐賀県出身。青山学院英文科・神学部卒。卒業後、「牛込福音教会」副牧師を経て、昭和13年、千葉県の「大原福音」に牧師として赴任し、3年間牧会。
昭和16年、「牛込福音教会」の牧師に着任。同年、日本基督教団に合同する際に「牛込矢来町教会」と改名した。山本三和人牧師は昭和19年に海軍に召集され、復員後、空爆で焼失した「牛込矢来町教会」を復興するため、昭和22年に教会を目白に引っ越し、目白の地で再興した教会を「ロゴス教会」と改名。同時に「ロゴス英語学校」を併設した。
昭和56年、ロゴス英語学校は閉校。昭和54年11月、「ロゴス教会」を八王子市小比企町の現在地に移転。八王子の地で新たな伝道を開始された。
平成10年11月、八王子会堂開堂15周年・牧師としての宣教60年を記念して、ロゴス教会主任を引退された。

著書に『神への反抗』(1960年)『カフカ夢譚』(1983年)『文学的神奉仕』(1988年)『続・文学的神奉仕』(1989年)『神への反抗』復刊(1989年)『カフカ夢譚』復刊(1993年)『言葉の喪失』(1993年) 訳書W・E・ホッキング『人間形成の方向』(1949年)他。
MESSAGE
山本三和人牧師によるショートメッセージをご紹介します。
はるかなる幻想に向かって
1982年 「ロゴス教会の出発を記念する会」にて

わたしどもの教会の目白から八王子への移転は単なる空間上の位置がえではありません。それはこれまでの古いロゴス教会から、新しいロゴス教会への脱皮であり、私自身の信仰の原点に対する回帰でもあります。そしてこの脱皮はロゴス教会が存続し、ロゴス教会が成長をやめないかぎりつづきます。
ロゴス教会がそこに向かって脱皮をつづけてゆくヴィジョンは、これからの教会活動を通じて、キリストにある神の愛と、それによる自由とやすらぎが、この民族の心に深くとどき、やがてそれが新しい文化の花を咲かせ、実をみのらせることにあります。わたしどもはこのことに対して特にC・N・C運動(Challenge for New Culture)と名付けることにいたしました。
これは簡単に達成できるヴィジョンではありません。その達成には永年にわたる祈りと努力の積み重ねが必要です。しかしヴィジョンはただ前方にかかげてながめるためのものでなく、それに向かって旅立つための目標です。
その道がどんなに遠くても、またどんなにけわしくてもあと戻りはゆるされません。わたしどもの旅立ちに当たって、みなさまのご理解と、お力添えとを、おねがいしてやみません。
わたしども、ロゴス教会は、ここ目白での35年にわたる活動に一つの区切りをつけ、八王子市小比企町へ移転することになりました。
このときに当たり、これまでながい間、皆様からいただいた暖かいお交わりと、心のこもったお力添えに対し、心からお礼を申し上げます。
さて、ローマ人への手紙の中でパウロは「だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった。」と述べています。キリストにある信仰の歩みは、時々刻々に行われる脱皮です。成長に欠くことのできないものは脱皮であって、脱皮が終わると成長はとまります。
道を掘る
1983.3.20 山本先生宅での礼拝にて
「君、そこで何をしている」 「道を掘っている。ぼくは進歩が必要だから」
これはカフカの『実存と人生』の中に出てくる会話です。
さて、私はこの頃、自分では結構忙しい日々を送っている、と思っているのですが、いろいろな人から、「先生はいま、何をなさっていますか」と、聞かれることがあります。そういうとき私は、「これでも結構忙しいんですよ」と、きわめて曖昧に答えてしまうのですが、実はそう聞かれたときにはいつも、「道を掘っている。ぼくには進歩が必要だから」という、カフカのことばを思い起こしています。このことばは、聞きようによっては大変キザっぽいのですが、現在の私の心境をこれほど良く表していることばは他にありません。
実際の話、私はいま自分が真剣に取り組まなければいけないことは、文字通り「道を掘る」ことだと考えています。なぜならば、私自身がいま歩もうとする道の行く手には、現実にいくつもの障害が横たわっていて、私の歩みを妨げようとしています。私は今その障害と闘っています。中でも、最も手ごわい障害の一つが、私の<年齢>です。といっても、「としをとり過ぎて身体がいうことを効かない」といっているのではありません。年齢というよりか年齢と共に私のうちに蓄積された経験だとか、それに基づく「ひとりよがり」が心配なのです。
私も他の老人と同じように荷いきれないほどの経験の重荷をひきづっています。今まではこの経験が、私の前進のたすけになることがありました。しかし、周囲の環境がめまぐるしく改まっていく今日の情況の中では、経験そのものが新しい認識と進歩の妨げとなります。
自分の経験の枠の中でしか物事がはかれないため、日毎に改まる環境世界から弧絶してしまって、立ち往生してしまいそうです。しかし74年もの間に私の中に積もった旧い時代とその世界の垢を洗い落とすのは並大抵のことではありません。聞いたり、読んだりするほかに、新しい情報の収集にも挑まなければなりません。
私にとっては、これから文字通り74歳の手習いが始まるのです。
有神論と無神論
神は人間の誤認能力を超えて存在するか、存在しないものです。
人間の理性の目で神を探したり推理したりして、神が「ある」と言っても、あるいは「ない」と主張しても、神の存在や非存在の証明にはなりません。
したがって、そのような有神論や無神論が信仰の確立に役立つはずはありません。信仰の確立に役立たないのは無神論であって、有神論ではないと思う人があるかも知れませんが、人間の憶測に基づく有神論は、私たちを神ならざる神に導く恐れがあります。
その意味では憶測による無神論よりも危険です。神の存在を実証することができないから、神は存在しないと主張するのが無神論だとすれば、神の不在を実証することができないから神あひる、と説くのが有神論です。
この二つの主張の違いは、神が「いる」と「いない」の言葉の違いだけであって、いずれも神の存在や非存在を学問的に確かめた上で唱えている議論ではない、という点では同じです。ですから、有神論も無神論も、共に「世は自分の知恵で神を認めるに到らなかった」という信仰の論理に反する思想の表現であることにまちがいありません。
無神論より有神論のほうが信仰的であるとか、神のみこころにかなっているとか、ということでもありません。逆に無神論が有神論よりも神から遠いとか、罪深い主張であるということでもありません。
世の知恵で探し当てるような形では、神は存在しません。
神なき世界の人間
自分が人間であるということは神でないということです。
神でないということは、思いにおいても、言葉においても、また行いにおいても過失を犯すということです。しかし、このことに気づくと、人は自分の犯した過失を是認してしまって、過失に対する責任を感じなくなります。
神なき世界では、人間の犯す過失を人間悪として掘り下げて問うことも描くこともいたしません。さらに、神なき世界の人間の過失は当然のこととして是認されるだけでなく、その過失が美化されることさえあります。
「罪を犯して悔ゆる魂は、罪を犯さないで悔ゆることを知らない魂より美しい」(M.シェーラー)と言うように、過失を犯してもそれに気づいて後悔する人は後悔することを知らない人よりも清い美しい魂の持ち主である、過ちに気づくのは自分に良心が健在するからであると思うことで、過失に対する責任を深く感じなくなってしまいます。
それだけではありません。過失に意味づけさえもしてしまいます。戦争という人間悪としての破壊や人殺しが、称えられたり叙勲の対象になったりするのはその顕著な例です。したがって、私たちが自分の真実の姿を見ようとする時に用いる手段の一つとしての反省や瞑想では、自分の人間としての存在の本質を見極めることはできるものではありません。
やはり、神の前に立ってみ言の光を受けなければ、人間の存在の本質は見えません。
選ばれた者
「選ぶ」というと、学校がむずかしい試験を課して入学生を選ぶように、多くの中から少数を選ぶと考えられがちです。確かに聖書にもそのように書かれています。「滅びる者は多く、救われる者は少ない」というのが信者の常識となっています。
しかし、この信者の常識から宗教的な偏見や差別の思想や取り扱いが生じます。私たちの選ばれた者としての自覚の中には、多くの人々が滅びに選ばれているのに、自分は救いに選ばれているという考えが潜んでいるように思われます。
選ばれた人の数が少なければ少ないほど、選びの有難さがより大きくなるという思いを、信者の人は感じているのではないかと思われる様な場面に出会うことさえあります。このような心境にある者が、偏見と差別に基づく思いや行為に陥ることは、自然の成り行きです。世との共存ではなく、世との戦いこそ、信者の努めであるという考えに到ることは必至です。
神は、人間を善人と悪人に分けて、善人には恵みを悪人には滅びを与えるようなことはなさいません。この偏りみることのないキリストにいます神の心を、誰よりも深く理解していたのはパウロでした。
キリストという神の愛の贈り物は全人類のもとに贈り届けられたものであって、決して教会に集まる一握りの人々の独占すべきものではありません。
全ての人が神の愛と恵みの対象に選ばれることで、救いと永遠の命に召されているのです。
教会の独善
教会はその人がそれを認めようが認めまいが、人間はみな罪人であるといい、それを教会外の人々にも認めさせようと罪の烙印を押し、罪の衣を着せてしまいます。
そのことが聖書の教えに背くことだと言っているのではありません。神の絶対的な要請としての律法の戒めに照らして、罪を犯したことのない人などは、どこにもいませんし、その人が認めようが認めまいが、人間はみな罪人であるという聖書の証は真実です。そして、それは人間の常識でもあります。
解らないのは、その人が認めると否とにかかわらず、その人に罪の衣を着せておきながら、どうしてもその人にキリストの愛と許しの衣を着せてあげないのだろう、ということです。人間アダムの犯した罪は全人類に影響を与えるけれど、神人キリストの愛と恵みは、これを認め信じる人たちにだけしか、影響を与えることができないというのでしょうか。
パウロが「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、命を得させる義がすべての人に及ぶのである」(ロマ5:18)とローマの教会に書き送ったのも、このことと関係があります。人間は神の救いへの選びから落ちこぼれています。
しかし、神は救いから落ちこぼれている人類を愛し、滅びから救いに選び直すために自らを空しうして償いの形をとり、人間の姿にならえたのです。罪は全ての人に普遍化し、愛と義は信者だけに特殊化することは独善です。