
山本三和人牧師
MESSAGE
山本三和人牧師によるショートメッセージをご紹介します。
認識と判断
彼女は国道を走っていた。私にはその姿が見えなかった。私が認めたのは彼女が走りながら体を振り動かしている様子や、ヴェールがひろがる様子や、足があげられる様子だけだった。
これはカフカの八つ折判ノートの中の言葉です。体を激しく振り動かしながら走り過ぎて行く人を見ていながら「その姿が見えなかった」というのはどうしてでしょう。この文章には『犯すべからざる夢』という題がつけられていますから、これはカフカの夢を述べた言葉のように思われます。しかし夢といっても、寝ている時に見る夢ではなく、起きている時に見る幻想のようです。
昔から「百聞は一見に如かず」といって、見るということから正しい認識が得られるように考えられてきました。そのせいか私たちには、「見えないものは信じられない」とか「見えたら信じる」などと言ったりします。それでは、見るということから本当に正しい認識が得られるでしょうか。
人が走る場合、それは風が吹くような自然現象ではありません。ですから「人が走る姿を見た」という場合は、単にその動きや様子だけを見て判断や認識を特定することはできません。その場合には、「何のためにどこからどこへ向かって走るのか」が分からない限り「人の走る姿を本当に見た」ことにはならないのです。私たちに中には健康のためにジョギングをする人もいれば、誰かに追われて逃げる人もいるし、乗り物や集会や待ち合わせの時間に遅れないように急ぐ人もいます。それぞれの走り方を見てみ、その意味がわからなければ<走りの本質>を見たとはいえません。
つまり、見る、ということから正しい認識が得られるとは限らないのです。だからこそ見ることからくる認識に基づいて、人についての判断を下したり、審きの言葉を語ったりすることほど危険なことはありません。そのことはたとえば犯行の現場に居合わせたばかりに、あらぬ疑いをかけられたり、犯人にでっちあげられたりするような悲劇があとをたたないのを見てもよくわかります。
預言者イザヤは『彼は主を恐るるをもって楽しみとなし、また目で見るところによりて審きをなさず』と言いました。事実イエスは、パリサイ人から「あなたのあかしは真実ではない」と言われたとき『あなたがたは私がどこから来て、どこは行くかを知らない。あなたがたは肉によって(目で見るところによって)人を審くが、私は誰も審かない』と答えているのです。
人間の抱く生の不安と虚しさを克服するためには、その根底にある死を克服しなければならない。そして、その死を克服する唯一つの道は、絶対者(神)の行為死(贖罪死)のみである。(『カフカ夢譚』)
平和的共存
福音の中心はイエス・キリストであり、イエス・キリストは『受肉の言』です。そして「受肉」とは神が人間に連帯の責任をとらせるために、長く交わせれてきた神と人間の冷たい戦いを終わらせ、人間の姿をとって、人間の世界へ来たり住み給うた秘儀を顕にする出来事です。
聖書によりますと、「受肉者」の復活は、人間の世界にまで下り給うた方が「高くあげられて、諸般の名にまさる名を与えられ給うた」出来事です。
ですから、復活によって明らかとなった事実は、イエス・キリストがただ教会の主であり給うだけでなく、実に世界の主であり給うということです。すなわち、キリストは教会が独占すべきお方でなく、世と共にくいただくべきお方でいうことあるとです。
ですから、神の愛し給う世界の人々が、その中にあって悩み苦しんでいる政治や社会の問題に関心を寄せるということは、キリストの僕であるキリスト者にとっては、むしろ当然のことと言わねなりません。
この世界のどこでどのようなことが起ころうと、また、そのために神の愛し給う世の人々がどのような悲惨な目に会おうと、心わずらわされることなく、ひとり静かに神との交わりの中にある魂の安らぎだけを持ち続けようとつとめることは、決して神の求め給うことではありません。
私たちの信仰と私たちの愛の確かさは、私たちの周りの人に対する私たちの在り方について、問われているのです。
羊と狼
キリストは弟子たちを派遣する時「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊を狼の中に送るようなものである」(マタイ10:16)と言われました。
この羊と狼という言葉は善と悪のシンボルとしてではなく、また正義と不義の表徴としてではなく、むしろ力と非力の徴として用いられていると思います。ローマ帝国の巨大な軍力・経済力に対して、ギリシャ世界の深い膨大なる哲学体系に対して、キリストの弟子たちはまことに微小なものでありました。
すべて戦いにおいて最も必要なことは、我岸の戦力を分析し彼岸の力の関係を正しく評価するということです。いくら自分の主張に自信をもっていても、一の力で百の力に抗することはできません。決定的な戦いを挑むには、まず味方の戦力の充実を計らねばなりません。
キリストが「羊を狼の中に入るるが如し」と言われたあとで、「この故に汝らへびの如くさとく 鳩のように素直なれ」と申されたのはこのためでした。へびはその腹を地面につけ地熱の変化を敏感に感得し、天地異変の難を免れます。
キリスト者はへびのように鋭敏なる感覚をもって時代と世界の動向を感知し、すなわち彼我の力の関係を見きわめ、鳩のように素直に自分のペース、戦力の増大につとめねばなりません。力の原理に基づいて動いている世界に向かって福音の宣教に携わるということは、狼の群れの中に羊を放つに似たことでした。
「この故に汝ら目をさましおれ」。
律法の光
元来、律法は神の言葉であり、聖にして善なるものであります。聖書にも「律法を行う者は、これによりて生きる」と述べてあります。
しかし、この戒めはけっして律法主義のテキストではありません。律法の戒めに応えることによって救いにあずかろうとすれば、救いにあずかるどころか、身も心もぼろぼろになって死んでしまいます。人間には律法の戒めに応える力がないからです。
ではパリサイ人たちは、なぜ律法に接しながら律法の戒めを正しく聞き取らなかったのでしょうか。それは、彼らがキリストを拒否したからです。立法の言葉が光を放つのは、それにキリストの光が当てられたときです。
例えば、キリストの光の下では「隣人を愛し、敵を憎め」という戒めが「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という戒めに変わります。
キリストの光を受けて、律法にある神の要請の光は倍加します。この律法の光に照らされて、死の苦しみを味わわない人は一人もいません。
律法の光を受けて、「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙7:24)と叫ばない人はありません。
しかし、律法の光を受けて心砕かれ、救いを求める人にして、はじめてイエス・キリストのご誕生をお迎えすることができます。
永遠と時間
人間とは三次元の世界の生き物です。人間の知恵で知ることのできることは、三次元の世界のことだけです。どんなに勉強した人でもその人の知りえることは、時間と空間の中だけのことです。時間と空間の制約を受けて生きる相対的な人間に、絶対者がわかるはずがありません。
ところが、神と人間との間には、直接、自然の関係があると考える人がいます。わたしたちが神を父と呼びながら、必ずキリストの名によって祈るのは、私たちと神との間に直接、自然の関係がないことを私たちが認めているからです。
神を父と呼びはしますが、私たちは被造物であって、神から生まれたものではありません。神の独り子イエス・キリストを信じることで、はじめてキリストの父である神を父と呼ぶことができるのです。
神と人間を同格視する人は、永遠と時間を混同します。永遠を時間の和や積、すなわち延長ででもあるかのように錯覚しているのです。永遠はけっして時間の延長ではありません。永遠を時間と混同することは、絶対他者としての神を人間並みに格下げして認めることであるか、あるいはその逆に、この時間と空間の制約のもとにある相対的な人間を絶対化し、神格化して、自己主張することに他なりません。
そして、そのようにして自分を神に祭り上げる人は誰の批判にも耳を傾けません。場合によっては耳を傾けないどころか、すべての批判者を弾圧したり、抹殺したりしてしまいます。
禁欲生活
今でも禁酒、禁煙、純潔が信仰であるように思っている人が沢山います。それらの信徒たちの間では、信仰生活は禁欲生活であると思われています。牧師が小説を読んだり、映画を見たりすると俗物視されかねません。酒を飲んだり煙草を吸ったりしようものなら、たちまちにして生臭牧師呼ばわりされてしまいます。はなはだしい場合になると政治や経済に関心をもつことまで、牧師にあるまじきことと非難されます。
これでは牧師に人間としての自由はありません。一度しかない人生を、いつも何かに怯えながら生きていくことになります。それだけではありません。ただびくびくしながら生きるだけでしたら、自分で自分の自由を制限するだけのことで、他人に迷惑を及ぼすことになりませんが、信仰生活は禁欲生活であるという考えの最も危険な点は、それが人を偽善に追い込むということです。
律法主義は人の自由を奪うだけではなく、必ず人を偽善に追い込みます。キリスト教の信仰をもつということは、確かに罪の意識を鋭敏にします。しかし、それは決して人を脅かし、人の自由を奪い取るものではありません。真の罪意識は、かえって人の心に安らぎを与え、現実の生をより深く享楽することを可能にします。
真実の罪意識が人間の自由を拘束したり、人間を偽善に追いやったりしないのは、罪意識も自由もともに同一の根源から与えられるものであるからです。
それは神の愛です。
宗教ブーム
「ロゴス往来」聖書の世界より
これほど科学が進み、これほど文明が高揚し、飢えと貧しさから解放されてほとんどの人が中流意識を抱いているこの時代、この国になぜ宗教ブーム現象が起こるのでしょうか。
現代の人々は、何もかも商品化して金に換える錬金術を身に着けているようで、元手のかからない神や仏を売って、どれほど大きな利益を得ても宗教法人の名において行えば、税金がかからないというのは魅力ですし、しかも一方には、額に汗して得た大事なお金を支払ってまで、ご利益を手に入れようとする人が何十万、何百万といます。
現代人は、中流意識やゆとり感は見せかけであって、本当はどうすることもできない不安に怯え、自由も安らぎも失っているようです。もし、神や仏や霊を商品化して商いをしたり、代価を支払って買い取ったりすることで宗教復興や宗教ブームの現象が興るとしたら、それは見せかけの宗教復興や宗教ブームにほかなりません。
なぜなら、そこでは人間と人間の幸せが中心であり、神や仏や霊は人間の幸福達成の手段にすぎないからです。そのような宗教ブームは、人間思想のない信心に基づく現象ですから必ず悲劇をもたらします。
近世人も現代人も、自分の命を得るために動かしたその手で自分の首を絞め、自分の時代を終わらせてしまいました。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 (マタイによる福音書10:39)
言葉が人から離れるとき、そこに残されるのは人間の不信と不在である。人間相互の信頼を回復し、人間を孤立から回復させるものは、失われた真の言葉の復活にある。(『言葉の喪失』)
神なき世界
近代人は神に代わって自分自身を中心として生きはじめましたが、いつも何かにとらわれて、片時も自由ではありませんでした。
夏目漱石は、知恵を求める生活にも情に身を委ねた生き方にも、意志によって道を選びながら歩く人生の旅にも、そこにあるものは自由ではなく束縛であることを悟って「どこかへ引っ越したくなる」と言いましたが、知恵を求める生活にも、感情に身を委ねた生活にも意志に従う生活にもいきずまったファウスト博士も、ビアトリスの霊に導かれて「いと高き所」へ引っ越してゆきます。
神なき世界に自由はありません。讃美歌に「主よ、われをばとらえたまえ、さらばわが霊は解き放たれん」(333)とありますように、人間は神にあることによってのみ、自由になれるのです。近代史そのものがそのことの証です。
私たちは現代を生きていますが、現代の様相を見ても、現代人が主体性を確立して、自由を自分のものにしているとは思えません。科学の進歩は著しく、文明の高揚は、私たちの期待をはるかに超えています。確かに便利になりました。
しかし便利になったということは、自由になったということではありません。人間の主体性が確立されなければ、自由になったとは言えません。心に言いようのない不安を覚えながら、自由であることはできません。
この憂うべき世界の現実を見るとき、神なき世界に、人間の自由もなければ幸せもないことがわかります。
当為と現実
世界に当為の姿と現実の姿があるように、人間にも当為と現実があります。人間には宗教心や宗教性がありますから、何かにつけて神を思い、苦境に陥ると神に救いを求めます。しかし、彼が求める神は、自分の願いを聞いてくれる神、自分に都合のよい神、自分の期待と願望で描いた偶像の神であって、決して真実の神ではありません。
ですから、パウロは「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」とか、「神を求める者はいない」(ローマ人への手紙3:10)と言うのです。人間もまた世界と共に、当為存在、すなわち本来あるべき姿を崩して、そうあってはならない罪人に転落しています。このごろ都会を捨てて大自然の懐に帰る人々が少なくありません。人間不信が彼らを自然の懐へ導くのです。
しかし、人間悪は裏切らないという思いが、人々を都会から自然の懐へ導くのです。しかし人間悪は、大自然にも感染しはじめています。人間と世界ならびに大自然の現状は、「地とそれに満ちるもの、世界とそのなかに住むものとは主のものである」などとは言えなくなりました。人間も世界も本来あるべき姿を崩して、あるべからざる現実の姿になってしまっています。
今ある現実の自然や世界を、このまま神のものとして容認することはできません。私たちは、現実の世界を神のものとして承認することができないように、現実の人間を神の子として承認することは、決してできません。
神の食欲
律法は神の巨大な胃袋であり満たされることのない食欲です。それは知識に対する食欲ではなく行為に対する食欲です。
律法についてどれほど真剣に学び、どれほどはっきりと善悪をわきまえ知るに到っても、律法の空腹はみたされません。律法の空腹はただ人間の行為によってのみ満たされます。
ところが人間はこの行為を欠いています。すなわち神の空腹を満たそうとはせず、自分の空腹を満たそうとしています。サマリヤの女がキリストに一滴の水をも差し上げようとはせず、自分の渇きのみを満たそうとしたように、私たちは自分の渇き、自分の飢えのみに仕え、その飢えと渇きを満たすために、神を自分の腹の中に詰め込もうと貪欲な企てを繰り返しています。
そして神を軽んじ律法を限りなく破っています。私たちは神の巨大な食欲(要求)に給仕するために、心を尽くして働かなければなりません。もし、私たちの努力が真剣であれば、私たちの努力の大きさに比例して増大する神の食欲の前に立たされるでしょう。そして、自分の非力と罪の深さとを今更のように知らされるでしょう。
そしてパウロと共に「我がなさんとする善はなさず、我がなすまじと欲する悪は却ってこれをなす。ああ、我悩めるかな、我をこの死の体より救わんものは誰ぞ」と叫ぶでしょう。
この時、私たちは主イエス・キリストにある神の救いに心を開き、福音を受け入れる素直な心の状態に導かれるでしょう。