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​山本三和人牧師

MESSAGE

山本三和人牧師によるショートメッセージをご紹介します。

神の霊

「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神からでているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねてから聞いていたが、今やすでに世に来ている」(ヨハネの第一の手紙.4:2-3).

 

この言葉は、イエス・キリストの史実を告白する霊は神の霊であり、イエスの史実を不定する霊は、反キリストの霊であり、迷いの霊である、と言うのです。これこそイエス・キリストに接し、イエスと交わった人々の告白です。

 

パウロがアテネ伝道でエピクロス派やストア派の哲学者たちと議論を交わしていたとき、「このおしゃべりは、何をいいたいのだろうか」とか、「彼は外国の神々の宣伝をするらしい」とか非難されました。(使徒行伝17:18)。

 

それは、彼が「イエスと復活」とを宣べ伝えべてていたからでした。パウロはイエスの霊の復活を述べていたとしたら、このように非難されることはなかったでしょう。体の復活を宣いたからこのように激しい非難を浴びたのです。パウロにとっては、イエスの誕生も、十字架も、復活もまごうかたなき歴史の出来事でありました。

 

イエスの史実を否定し、イエスの人間性を否定する霊は、神の霊ではなく、反キリストの霊であり、迷いの霊に外なりません。

自分を愛するように

自己愛は、キリスト教会ではよく悪徳として戒められています。しかし、この事実を認めることから始めなければ、偽りの生を綴ることになります。私たちが真実の意味で自分をしか愛し得ないということは、私たちが罪人であるということの証しです。この現実を確認することから私たちの信仰生活が始まります。

 

「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という戒めは、人は誰でも自分を愛するようには他人を愛することはできない。という人間の悲しい現実を暴きます。人が他者を愛する時、愛は必ず他者の持つ何かによって動機づけられます。

 

ある時は他者の持つ美によって、ある時はその善によって、ある時はその真、または血肉によって始動せしめられるのが人間の愛です。他者に注がれる人間の愛が他者の持つあるいは、他者の行う何かによって誘発されるということは、人が他者を愛する時でもその愛の本当の対象は自分自身であるということです。

 

しかし、自己愛は他に誘発されて始動するものではありません。人が他の何者よりも自分自身を愛するのは、自分が他の何者よりも美しいからでも、善良であるからでも、偽りのない真実な生を営んでいるからでもありません。

 

すなわち、自己愛は最も自然な自発的な感情にもとづく言動です。しかし、自分を愛するようには他人を愛することはできません。戒めに背いていながら、守っているようなポーズをとるのは偽善です。

神ごころの強い人

イエスは荒野に導かれて悪魔の誘惑を受けられたとき、まずパンの誘惑を受けられました。お腹がすいている人には、路傍の石もパンに見えることを悪魔は知っていたようです。次にイエスは悪魔から権力へ誘われました。人が権力に弱いことも悪魔は知っていました。最後に悪魔はイエスを奇蹟に誘いました。

 

ふだん貧しく弱い立場にある人は、奇蹟に憧れることも悪魔は知っていました。イエスは人間の弱みをついた誘惑の全てを拒否し、誘惑に打ち勝たれましたが、この荒野における誘惑のお話は、私たちに真実の理解には主観を交えない史実な観察が必要であることを、教えているように思われます。

 

人はそれぞれの置かれた立場において、それぞれ異なった期待をもち、違った願望をいだきます。そして異なった形の夢を見ます。空腹の人の目にはパンを携えてくる神の姿が見えるでしょうし、貧しい人の目には、神の顔が小判にみえるでしょうし、弱い人の目には神は権力を授けてくれる者に見えるでしょう。

 

すなわち、自分の心で描いたり刻んだりした偶像に仕えるようになった人々は、宗教心の乏しい人々ではなく、むしろ熱心に神に仕えていると思っていた人々でありました。

 

全くの無心論者よりも、神ごころの強い、そして宗教心の深い人々のほうが、神ならざる神に仕える危険にさらされています。神を誘惑するに当たっては、いささかの主観の働きもあってはなりません。

私たちは「罪」を私たちの思いや言葉や行為による律法違反と思いがちですが、聖書が述べている罪とは、私の中に宿っているが、私でない別の人格のようです。「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ人への手紙7:20)


というパウロの言葉によって表現される罪とは、ドストエフスキーのいう「悪霊」であるように受け取れます。すなわち、私の内に悪霊が宿っていて、その主義と支配を私たちの思いと言葉と行為の全領域に広げようとしている。その主権を受け入れその支配に服することが罪である、と聖書は教えているようです。罪の主権と支配に服することが罪であるというより、むしろそれは「死」であるということのほうがわかりやすいように思われます。

 

パウロは「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6:23)とはっきり述べています。この言葉は、罪が私たちの主人であるということを明らかにしています。罪が私たちの主人であるということは、私たちが罪の奴隷であるということです。

 

罪と私たちの関係が主従の関係であるということは、「罪の僕」「罪に仕える」「罪の支配」というように、罪の主体性または人格性を示唆する言葉からも知らされます。私たちが、善と悪との間、生と死との間、当為存在と現実存在の間で、選びの自由と能力を失っている的を外した存在である、というのが罪人であるということです。

世俗との共存

神様がどうして人間の姿をとって現れなさったかと言いますと、人間は人間の言葉でしか他を理解し得ないし、人間の事物をとうしてしか理解し得ないからです。

 

ですから神さまは、世の人を救うために世を愛し、世に対して御子を下さったのです。ですから私たちは、世に対する関心をなくし、世の持てる知識を無視し、世との交わりを絶ち、世から離れて自分の救いを全うすることはできません。

 

パウロが「わが骨肉のためならんには、キリストからのろわれて捨てらるるもわが願うところなり」といったのも、「己の如く汝の隣り人を愛すべし」という言葉において「律法の全体が言いつくされる」と言ったのもこのためです。私たちは、世を蔑んだり、世を恐れたり、世から遠ざかったりすることがないために、私たちのひとりよがりの信仰と戦わなければなりません。

 

日曜日ごとに教会の礼拝に出席する忠実なキリスト者と、日曜ごとに歓楽街に出かけて行って、酒を飲んだり、映画をみたりする非キリスト者とを比べて、前者が後者を憐れんだり、蔑んだりすることのないようにせねばなりません。

 

教会も世俗によって助けられ支えられて、多くのよきものをそこから与えられ、世俗に負うところが少なくありません。これを感謝もしないで受けながら、世俗を蔑んだり、世俗を恐れたり、教会の世俗化を非難したりするのは、身勝手というものです。

惨めな人間

キリスト教徒も仏教徒も人間であることに変わりはありません。キリスト者だけが、自己矛盾のない神になったわけではありません。この世にある限り、そして人間である限り、この悲しい現実から解放されることはできません。

 

自分が清め、分かたれ、この世でただ一人の完全な人間であると思うのは、キリスト教徒の思いあがりです。善と悪、生と死、当為存在(あるべき姿)と現実存在(現実の姿)の間にあって、選びの自由と能力とを失っている存在である、という悲しい事実においては、人間はみな同じです。ただ違いは、この悲しい現実に気づいて、パウロとともに「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死の体からわたしを救ってくれるのだろうか」(ローマ人への手紙7:25)と訴える人のみが、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ人への手紙7:25)という安らぎと、喜びと感謝の思いに導かれます。

 

また、このような人間と人間の世界の現実に気づいた者が、キリストの人格と行為の中にある神の愛と、その愛に基づく救いを見出すことができるのです。

 

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイによる福音書10:34) 。

この言葉にキリストがおいでになったことの真意が示されています。

人格的な交わり

非人間的な交わりの中では、力の関係によって自由が犯され、平等の人間関係が歪められます。それが個人と個人の関係から集団と集団の関係、国と国との関係になりますと、この傾向はますます大きくなります。

 

力は正義であり、力なき者は力ある者の自由を増し、繁栄をもたらす手段になってしまいます。これでは貧しい人や弱い人はいつまでたっても救われません。自由になることも、幸せになることもできません。今日でも、貧しく弱い人々に対する偏見や差別は姿を消しておりません。

 

イエスが十字架上の死を遂げられてから二千年近くも経っているのに、偏り見ることのない神のみこころは、まだ実現されておりません。偏り見ることのない神を信じる人々の間にさえも、偏見や差別が残っているということです。教会の中でも、まだ自由と平等の人格関係が打ち立てられてはいないということです。

 

「二人の人間が共に語るとき、いつでも第三番目の人、永遠の傾聴者なる神が耳を傾けるのだ。しかし、この永遠の傾聴者がいない場合には、あらゆる話は一対話でさえも独白めいてくる」(ピカードの言葉)。

 

対話が力の関係に左右されないためには、強い人にも弱い人にも偏らない、公平な聞き手が必要です。すべての人の言葉を分け隔てなく聞いてくださる公平な聞き手が、共にい給うことを信じる人の間でしか、「我と汝」の人格的な交わりは始まらないし、公平な対話は始まりません。

クリスマス

クリスマスは主イエス・キリストのご誕生をお祝いする日ですが、キリストとはどんなお方であったでしょうか。

 

キリストは、宗教的な天才でもなければ優れた教育者でもなく、預言者でもなければ人神でもありませんでした。すなわち、難行苦行と修練とによって自らを神にまで高めた人でもなければ、自分の意志の力で神を否定し、自らを神に祭り上げた人でもありませんでした。

 

パウロが述べるように、キリストは人類に対する愛ゆえに、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり人間の姿になられた」(ピリピ人への手紙2:6-7)神でありました。

 

キリストは神になった人間ではなく、人間になった神でありました。クリスマスは、人神ではなく、神人のご誕生であることを心にとめて、神人キリストをお迎えするにふさわしく信仰の姿勢を整えなければなりません。

 

そして、神人としてのキリストをお迎えするにふさわしい準備の一つは、私たちの心の中に落ちた人神の種が、もう芽ぐみかけているかもしれません。自分を人神に祭り上げた人には、イエスのご誕生を喜んで迎えることはできません。

 

ですから、私たちの信仰意識と生活から人神思想の種を取り除き、その芽を摘み取ってクリスマスを迎えなければなりません。

虚栄の果実

蛇は女の耳に「園の中央にある木の実を食べても、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3:4-5),と囁きました。

その木を見上げると「いかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていた」(創世記3:6)ので、イヴは実を取って食べ、一緒にいたアダムにも渡したので男も食べました。

 

蛇の誘いは、イヴに神の賢さを身に着けさせること、すなわちイヴを人神に祭り上げさせることでした。これこそ人間のいだきうる最大の虚栄心です。

 

蛇(ハーナーシュ)という言葉が虚栄という意味の言葉であるということが、蛇の囁きでよくわかります。神はアダムとイヴをエデンの園に置かれたとき「園の木の実はどの木からも食べてよい。しかし善悪を知る木の実からは取って食べてはならない。それを食べると必ず死ぬであろう」(創世記3:3)と言いました。人間は神にだけはなってはいけない、という神の戒めです。

 

これこそ、人神誕生がもたらす悲劇を警告する神の言葉です。神に対する不順の告白のもたらす結果は死という悲劇です。悲劇は虚栄の果実です。

 

人間の真の姿は、神の律法の鏡に写してみなければ認めることはできません。林檎(善悪を知る木の実)がなければ虚栄という背神の真実はあらわとなりません。背神の真実があらわにならなければ、自分の纏うている死の悲劇に目覚めることもないのです。

仏教とキリスト教

キリスト教を要約して言うならば神の立場、仏教は一口に言えば人間の立場であると言えます。すなわち、われわれの全領域に神の支配が打ち立てられたということを主張するのがキリスト教であり、反対に生存の全領域を人間が支配していこうとする一つの悟りの道が仏教であると言うことができます。

 

ところが非常に皮肉なことに、人間を主たるテーマとする哲学である仏教が、究極の時点において人間を超えているのに、神の絶対主権と支配を主張するキリスト教が、どこまで行っても人間の匂いを残すということです。西洋の芸術の中のキリスト教文化が、人間的なものを超越しないで残しているのは、キリストの主権の告白においてこそ人間がいっそう人間らしくなるからではないでしょうか。

 

キリスト教の福音の真髄は、自己を昇華するのではなく、むしろ世俗の領域の中に入り込み、政治、経済、文化など人間の現実の生活の中に、人間として生きていくということを明らかにすることではないかと考えます。

 

変貌の山の出来事のように、あの静けさの中にキリストの姿が一段と神々しく見えるところで小屋をたて、神を瞑想し、神を語ろうとする生活は、むしろ仏教的であると思います。教会形成の上でも、形式的な事柄に深入りしすぎて、何とかして聖地をつくり出そうとする努力が、教会から人間を追い出すことにならなければよいと心配になるのです。

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