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​山本三和人牧師

MESSAGE

山本三和人牧師によるショートメッセージをご紹介します。

自覚的存在と責任的存在

知と情と意が調和よく発達している人のことを、私、ちはよく人格者と言います。すなわち円満な人柄の人のことです。しかし、人格とは円満な人だけにあるものではありません。それはある条件のもとでだけ形成されて現れます。

 

人格とは自覚的存在であり責任的存在のことです。自覚も責任もないものを人格者と呼ぶことはできません。では自覚や責任はどのようにして生まれるのでしょうか。それは自覚は他から生じ責任は他に対していだかれます。

 

そして、私たちが誰の前にたち、誰と交わるかということによって、自覚と責任の内容が変わります。たとえば、私は罪深い人間であるという自覚は、私が神の前に立つときにだけ生まれます。どんな立派な人であっても同じ人間である場合には、その人の前に出ても罪の意識をいだくようにはならないでしょう。

 

人はみな罪人であり、間違いも失敗も犯しますから、自分だけが特に罪深い人間であるとは思いません。責任についてもそうです。すなわち私が誰の前に出るかということによって、私は責任を感じたり、感じなかったりします。

 

私が罪人であることに対して深く責任を覚えるのは、私が神の前に立つときだけです。私と同じ罪を犯している人の前では、自分の罪だけを責める気になれません。真実の意味での他者との交わりを欠くところでは、人は自覚的存在とも責任的存在ともなれません。したがって、そこでは人格的存在となることはできません。

神と共に

私たちキリストにある神の愛と恵みの皮袋の中で確立される信仰生活においてのみ、神と共にあることができます。しかし、私たちが自分の力でキリストにすがりキリストをつかまえて、死んでも離さないというような形で共にあるのではありません。

 

自分の知恵の力でキリストが教会と世界の主であることを知り、その認識の正しさを確信してキリストから離れないというような形の共存は、決して永続する共存ではありません。そのような人間の確信にも、その確信を持ち続ける力にも限りがあるからです。

 

ゲッセマネの園における弟子の姿を見てイエスが言われたように、「心は熱しているが肉体が弱い」のが人間です。心ではどんなに迫害にあっても、迫害が激しくなると、心ならずもキリストを知らないと偽りの証をたててしまいます。そのことはキリストと共にいたペテロの偽証をみてもわかります。

 

キリストが「あなたがたは天を指して誓ってはならない」と教えられたのも、人間の弱さを知っておられたからです。私たちが神と共におるのではなく、神が私たちを愛し、私たちと共にいてくださるのでしたら、私たちを神の愛から引き離し得る者は、どこにもいません。

 

キリストにある神の愛を信じ、キリストにある神の愛にとらえられた信仰生活においてのみ、神が私たちと共にいまし給うのです。

信仰姿勢の反省

イタリアの作家ガレスキーの作品に出てくる神父ドン・カミロが「私は不幸だからといって神に祈らない。幸福だからといって神に感謝しない」というのがあります。この考えではもし幸福だからといって、神に感謝するのが当然だとすれば、不幸な人が不幸だからといって神を呪うのも当然です。

 

私はこの言葉に接したとき、あの戦争から無事に生還できたことを自分の祈りの成果として口にしたことを心から恥じました。「私の戦場での祈りが神に通じ、神は再び私を妻子のもとへ帰してくださった」という私の言葉を、戦死した兵たちの親や子供が聞いたらどんな気持ちになられるでしょうか。

 

私たち親子は神を信じることも、また祈ることもしなかった、だから戦死しても当たり前だ、と思う人がいるでしょうか。「祈って救われた」とか「信じて幸福になった」とかいった類の証言が伝道の言葉でもあるような空気が、教会の中にみなぎっているとすれば、背神の強いこの神父の言葉は、実は私たちの信仰の姿勢に真剣な反省を促す言葉であることがわかります。

 

キリスト教は律法主義でもなければご利益信仰でもありません。自分の幸せや救いのために、神を信じたり、神に祈ったりする宗教ではありません。神は決して人間の幸福の手段ではありません。神は教会の主であり、世界の主です。私たち人間の幸福や救いは、この主なる神の告白と信仰の賜物、すなわち結果であって目的ではありません。

思うべき限度

人間の思いには「思うべき限度」というものがあります。その限度というのは、私たちが人間であるということです。何を思うにしても、何を言うにしても、また何をするにしても自分が人間であるということについての自覚に基づいて、思い、語り、行動することが「思うべき限度を越えて思い上がらない」(ローマ人への手紙12:3)ということです。これはキリスト者が信仰をもつことによって、自分が人間であるという基礎的な現実を見失う危険性について勧めた言葉です。

キリスト教徒にとってこのような勧めが必要なのは、信仰をもつことが悪人が善人になることであったり、不完全である者が完全な者になることであると思っている人が少なくないからです。信仰をもつことは天使になることでも聖人になることでもありません。ましてや神になることでは断じてありません。

 

むしろ自分のことを善人だと思っていた人が、自分を悪人と思うようになることであり、自分を神だと思っていた人が、自分を人間だと思うようになることであり、自分で自分のことができると思っていた人が、神の助けがなければ何もできない人間だと思うようになることです。

 

言い換えれば、キリスト者になるということは、最も人間くさい人間になるということです。人間くさい人間とは、人間の限度をわきまえた人ということです。「信仰の量り」に従い、からし種一粒ほどの信仰もないという自覚をもつためです。

冷たくも熱くもない

よく、日本人は神や宗教にに無関心であるといわれます。神に反抗もしないかわりに、神を信じるようにもなかなかならないと言われます。でも見方によっては、日本人ほど宗教的な民族はないかも知れません。お祭りが好きで、神仏に願をかけたり、誓ったりするのが大好きです。

 

受験の季節になりますと、合格祈願の若者と父母が神社に群がります。しかし、そのような人々が、神や宗教の問題に熱く燃えているとは思いません。でも冷たく冷えているとも言えません。それは人間の誰のもある宗教心、もしくは宗教性の現れであって、神の側から見れば、冷たくも熱くもない、「生温かさ」そのものです。(黙示3:15)。

 

しかし、このような意味での宗教心、もしくは宗教性の豊かな人には、はじめからきわめて宗教的でありますから、信仰が回心(conversion)の出来事にはなりません。私たち日本のキリスト教徒はどうでしょうか。

 

もし、私たちが「おがみや」的信者になっているとしたら、あるいは「からし種一粒ほどの信仰があれば山を動かすことができる」という主のみ言を無視して、自分の宗教心を絶対化しているようなことがあるとしたら、冷たくもなく、熱くもない、生温かさにおちいっているのは、実は私たち自身ではないでしょうか。

過剰な信仰意識

私たちは、私たちを包む環境世界に向かって自分を開かなければなりません。ところが過剰な信仰意識や召命意識や選民意識が、得てして信仰者に閉鎖的な姿勢をとらせ、知らず知らずのうちに世間から孤立させることがあります。

 

「信仰を守るために」という信仰意識は、信じなければならないもの(神)も信じていないのです。「私は神を信じて断じて疑わない」というような人は、自分の体のおそらく胸(心)か腹(意志)か、すなわち絶対依存の感情が道徳意志の働きでそのように信じているのです。

 

K・バルトは「自分は神を信じていないと思っている人よりも、自分は絶対に神を信じていると思い込んでいる人のほうが、より大きな過ちを犯す」と言っています。前者ははじめから神を信じていませんから、神でない神を拝むようになる機会が少ないのですが、後者には神でない神をつくって拝む危険性が沢山あります。自分の宗教心を絶対化する人が、自分を人神に祭り上げるのに時間はかかりません。それは、神への信仰や神の選びを人間的に条件づけるからです。

 

自分には神の召命や選びに値する値打ちがあるから、神に召され神に選ばれたと思いがちだからです。その思いは独りよがりのうぬぼれと特権意識に導きます。ユダヤ教徒やパリサイ主義者たちがそうでした。

 

神の選びが天職意識と平等意識をともなう人類平等の土台である、という認識に立つことが必要です。

からし種一粒ほどの信仰

「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『あの海に入れ』と言えば、必ずそのとおりになるであろうと言ったのは決して嘘ではない」(マタイによる福音書17:20)。

 

イエスのこの言葉は私たちに厳しい自己反省を迫ります。果たして私たち人間がこの言葉を、真実の意味において信じることができるでしょうか。信仰は絶対的な力です。信仰に不可能はありません。あの小さなからし種一粒ほどの信仰でもあれば、私たちにできないことはありません。

 

しかし、私たち人間は神ではありません。私たちは相対性の衣をまとうたものであり、その力をいくら集めても、どのように鍛えても、改善しても、絶対の力となることはできません。すなわち、私たち人間には、自分が着ている相対性の衣を脱ぎ捨てる力はありません。

 

「信ずれば救われる」ということは嘘ではないけれど、私たち人間は、自分の力で神を信じることはできがないのです。信じることできないということは、神になることはできないということです。

 

「からし種一粒ほどの信仰があれば」の一言で山を海の中へ移動させることができるという教えは、信じようとしても信じることができない私たち人間の悲しい現実に、私たちを目覚めさせて、「何人も聖霊によらなければ、イエスは主なりと告白することはできない」という、恩寵の世界へ導くための教えであります。

神の独り子

「主はわたしに告げられた『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ』」(詩篇2:7)

 

これは神がキリストに語られた言葉です。この言葉が示すように、キリストと神の間の関係は創造主と被造物の関係ではなく、親子の関係です。キリストは被造物ではなく神の独り子です。そして、イエス・キリストが神の独り子として自覚をもっておられたことは疑う余地がありません。

 

「わたしたちに父を見せてください」と言った弟子に、「わたしを見たものは父を見たものである」と答えられたのをみても、このことはよくわかります。また、ご自分が神の独り子であるという自覚をもっておられたからこそ「わたしは道でありまことの命である」とか「わたしによらなければ誰も父のもとに行くことはできない」などとおっしゃたのです。

 

イエス・キリストは常にこのような自覚のもとに、思い、語り、行動しておられました。人間と共存し、この共存の土台の上に全人類の平和的共存を打ち立てるために、神が人となり、人の世界に来られたというのは、パウロやその他の使徒たちの作り話ではなく、イエスご自身が弟子を集め使徒に任じて、世界の果てまで遣わされたことは、疑う余地はありません。

 

パウロはこのキリストにある神の真実についての信仰による認識に基づいて、国境を越え、海を渡ってキリストの復活を宣べ伝えたのでした。

人間愛の常識

人は近い者(身内の者や味方)を愛しはしますが、遠い者(敵やあかの他人)を愛することはしていません。これが人間愛の常識です。しかし、この常識が問題です。

 

人は本当に近い者を愛しているのでしょうか。親子でも、近くいすぎては尊敬し合えなくなり、愛し合えなくなることがあります。それは親が親である前に、人間であることを忘れているからです。

 

人間である前に親になりすまして、人間として振舞わずに親として振舞うことは、往々にして子供に親の実像を隠し、親の虚像を示すことになります。親の虚像を実像と取り違えて親を偶像視する子供が出てきます。

 

偶像が台座から落ちて子供が悲しむことを避けるために、親は実像を隠し、自分の虚像を掲げます。これは近くいすぎて自分の実像を見られると、子供の愛と信頼を失うことを恐れるからです。人は遠くからしか人を愛することができない、つまり虚像しか愛し得ないのです。別の言葉で言えば自分をしか愛し得ないということです。

 

人が他者を愛する場合は、絶対者として愛するのではなく、他者の中の自分を愛することに他なりません。人間が愛しているのは自分だけであって、絶対者への愛は欠落しています。人間は人間の虚像をしか愛し得ないし、愛していません。このような人間愛の現実を知らされた者のみが、キリストにかる神の愛に心を開きます。

​パリサイ人

パリサイ人と呼ばれた人たちは、善悪の価値判断を人間にまでも加えて、善人と悪人とに分けました。そして、自分は善人の側に立ち、自分と異なる思想と宗教の人々をことごとく悪人の側においてこれを裁き、その悪人から自分を守るために、悪人との交わりを避けることを願ったり、努力したりすることが、信仰生活であると思っていました。

 

しかし同じ人間を善人と悪とに分けて、善人とは交わり、悪人とは交わらないということは、偏見であり差別の思想であり裁きの行為に他なりません。パリサイ人は律法を重んじ、律法に従って宗教生活を整えていたように見えはしましたが、本当は律法を軽んじ、律法の戒めを厳しさを割り引きして、これに接していきました。

 

神の戒めの光を当てて見るならば「正しい者はいない。独りもいない。悟る者もなく、神を探し求める人はいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ人への手紙3:10-12)とあるように、神のほかに善人など一人もいません。人間に人間を善人と悪人に分けたり、自分を善人の側において悪人の裁きを行ったりする資格や権利のある人など、一人もいません。

 

自分が間違いなく人間に対して、善悪の価値判断を加える絶対的な知力を備えていると思う人は、エデンの園の禁断の木の実を食べて、自分を人神に祭り上げた人だけです。

神の法廷の被告

初代教会の中には食べ物でも飲み物でも、清いものと汚れたものとがあり。信者は自分の信仰を守り清さを保つためには、汚れたものには口をつけてはならないと互いに裁き合い、せめぎ合っていたようです。パウロは警告します。(ローマ人への手紙4:10)。

 

人を罰したり許したりすることのできるのは、罪を犯したことのない人だけです。人間は罪人ですから人を裁く権利も資格もありません。資格も権利もない者の裁きは罪です。律法のに対する違反行為です。神のなし給うことを神に代わってする越権行為ですから、最も重い罪と言えます。このような重い違反行為を犯すことがないように『ヤコブの手紙』の記者は「たとえ律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば全体を犯したことになる」(ヤコブの手紙2:10)と述べます。

 

私たち信仰者が片時も忘れてならないことは、私たちは原告でもなければ裁き人でもなく、神の法廷の被告であるということです。どんなに強い召命意識があっても、どれほど確かな選民意識を抱いていても、私たち人間が罪人であり、神の裁きの座の前に立つ神の法廷の被告であり、人をその食べ物や着物のことで裁く権利も資格もないという事実は変わりません。

 

信仰生活の整えるべき姿勢は、思うべき限度をこえて思い上がることなく、慎ましく謙虚に全ての人を愛し、互いに手を取り合い、助け合って平和な世界をつくるために祈りかつ努めることです。

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