
山本三和人牧師
MESSAGE
山本三和人牧師によるショートメッセージをご紹介します。
神われらと共にいます
「見よ、おとめごがみごもって男の子を産むであろう。その名は、インヌマエルと呼ばれるであろう。これは『神われらとともにいます』という意味である」(マタイによる福音書1:23)。
キリスト教は、神が、イエス・キリストにおいて常に私たちと共にいてくださることを信じて、神を讃美する宗教です。神がその敵である私たち罪人と共にいて、私たちを護り導いてくださることを信じる宗教です。口で言えば簡単ですが、これは神の計り知れぬ愛による行為です。
この神の愛に応えていきるのが信仰生活です。神はみこころに背いて生きる私たちをさえ、みこころにとめ、私たちを許して、それが海の果てであろうと、陰府であろうと、私たちと共にしていてくださるのです。思想や信仰が違うからといって、同じ人間を敵視したり、憎んだり、差別したり、争ったりすることは、信仰者として、キリストにある神の愛に応答する生き方ではありません。
キリストは「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11:28)とおっしゃいます。
信仰生活には、見栄や、力みや、背伸びや、痩せ我慢や、はったりなどいりません。深いやすらぎのみが私たちの心を支配します。愛に基づく共存の勇気のみが、人類の未来に光を与えます。神と共に営まれる生こそ、喜びがあり、安らぎがあり、真の生きがいが与えられます。
キリストの死
イエスを十字架にかけた人々や、「お前が神の子ならそこから降りてみろ」と罵る群衆に対して、イエスは恨みや憎しみの言葉を語るどころか、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分がしていることがわからないのです」(ルカによる福音書23:34)執り成しの祈りを捧げておられます。
心なき人々がイエスの命を奪ったというよりは、イエスご自身が、心なき人々への愛ゆえに、ご自分の方から進んで自分の命を与えたとしか思われません。
パウロは「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であったとき、わたしたちのためにがキリスト死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ人への手紙5:7-8) と述べています。
正しい人や善人のためにさえ、自分の命を捨てる人はほとんどいません。キリストの事実は、このような人間の常識ではとても計ることはできません。
イエスは、人間の上り得る最高の地点まで上りつめた人間ではありません。神と等しい位にありながら、その位を惜し気もなく捨て、自分を低くし、空しくして人間の像をとって、私たち罪人に近づき、私たちの重荷を代わって担い、十字架上の死を遂げてくださったお方であることは、疑う余地がありません。
パウロの回心
神の前に立つことなく、自分の生の矛盾に気づくことはできません。
神の啓示の光の照射を受けることなしに、私たちの生の闇の真相を見極めることはできません。
パウロが熱心なユダヤ教徒として、ことに汚れた世から清め分かたれたパリサイ主義者として、キリスト教徒の逮捕と投獄の業に明け暮れていた頃に、自分の罪に仕えて動き回っているなどという意識をもっていたでしょうか。
裁きの人の立場に身をおいていた人ですから、強い正義感はあったでしょうが、自分が自分の内に宿っている罪に仕えているなどとは夢にも思っていなかったと思います。
キリストにある神の光の照射を受けたとき、はじめて彼は罪に仕えている自分の醜い姿を見たのです。律法が人間の罪の真相を映して見せる鏡であるという認識を与えられたのでは、キリストにある神の光の照射を受けてからのことです。
目からうろこのようなものがとれて、神と罪に宿を貸してこれに仕えている自分の真実の姿が見えはじめたのは、彼が復活のキリストに接していたからのことです。キリストを信じキリストの光の下で、彼は初めて心ならずも内に宿る罪に仕えている自分を発見したのです。
パウロが自分の信仰生活の中で、神と悪霊の両方に仕えてる矛盾を告白したのは、決して回心以前のことではありません。
時のしるし
時代がどのように変わっても、世の中がどのようになっても、十年一日のような信仰生活を送ることは、決してイエスが求めておられることではありません。
イエスは弟子たちを伝道の旅につかわすにあたって、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊を狼の中に送るようなものである。だから蛇のように賢く、鳩のように素直であれ。人々に注意しなさい」(マタイによる福音書10:16)戒められました。
「人々に注意しなさい」ということは、人の働きに注意しなさいということで、世界や時代の動きに注意しなさいということです。さらにイエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」とおっしゃいます。
蛇は大地に腹をつけて生きえていますから、地熱の変動を感知して難を避けます。イエスは弟子たちに蛇のように賢く、時のしるし、時代の動向を感知して、鳩のように素直にその動向にに処することを求めておられます。
教会の中には、現実を超越して生きるのが信仰生活であるという常識があるように見えますが、教会にとって、また私たちにとって必要なことは「時のしるしを見分ける」ということであります。イエスは「天からのしるしを見せてみらいたい」と言ったパリサイ人やサドカイ人に対し、次のようにおっしゃいました。
「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか」(マタイによる福音書16:3)と。
生活の変化と流転に処する道
キリストの証人としての信仰者は、鷲のような鋭いまなざしで、時代の動向と時のしるしを見分けて、その時代にふさわしい言葉を選び、生き方を確立して、神の証人としてのつとめを果たさなければなりません。
しかし、ただ一つ問題があります。生の変化と流転に処する道を求めるのは当然のことですが、それを何処に求め、何に見出すかということが問題です。
パリサイ人や律法学者たちは、変化と流転とそれからくる不安に打ち勝つ道を律法に求めました。「世は変わり時代は移る。しかし神の言葉は永遠に変わらない」という彼らの着眼に狂いはありませんでした。しかし律法に対する接し方を誤ったため、「律法そのもの」の前に立つ代わりに、律法ではあにただ律法らしく見えるものの前に立って、自分たちの宗教生活を確立しようとしたのです。
彼らは神の律法に親しみ、律法に忠実に生きることで生の変化と流転から解放される戸信じ、事実、律法の戒めをおこなうことによって、何ものも奪うことのできない安らぎを得たと確信していました。
彼らが「律法に誇り律法に安んじて」いられたのはそのためです。しかし、彼らが親しみ学んでいた律法は「律法そのもの」ではなく、彼らが描いた律法のイメージでありました。それ故にキリストを必要としませんでした。
人間化された律法には、生の空しさに打ち勝つ力も、生の不安を取り除く力もありません。
人格の復活
神なき世界では対話でさえ独白になります。数と力との関係で、対話の行方が左右されるからです。
厳正な第三の聞き手の存在を認めない小型人神政治家は、数と力の法定で裁いて、他者を否定することによって、実は自分自身を否定していることに気づいていません。厳正な聞き手としての絶対他者への信仰が、私たち人間に「我と汝」の人格関係を結ばせます。そして、その人格的な交わりの中で、人間は人格として復活します。
人格とは自覚と責任の主体を意味します。そして、それは他者との交わりや関わりの中から生まれます。従って、他者を押し退けたり、他者を失ったり、他者を否定したりするような思いと行為において、人はその人格を失い、人間として生きているとは言えない、死する者となります。
いま人類が最も必要としていることは、人間不信を克服し、人間への信頼を取り戻すことができるでしょうか。ドストエフスキーは申します。「人間に対する信仰は、神人キリストへの信仰である」と。
なぜ神への信仰ではなくキリストへの信仰なのでしょう。神はキリストにおいて自らを啓示なさるからです。「われを見し者は父を見しなり」とイエスが言われる通り、キリストを見ることが神を見ることであり、キリストを知ることが神を知ることであり、キリストを信じることが神を信じることです。
神は見えない存在
時間の制約下にある私たち人間に、時間を越えた永遠の力や神性は解りません。また、相対性の制約下に生きている私たち人間に、絶対者なる神の本質が理解できるはずがありません。
このことを無視して、人間の浅い知恵で神の存在を確かめることができないからといって、神の不在を断定したり、その反対に、宇宙にある整然とした法則や秩序を見て、それがひとりでにできたと考えられない。
きっとこれを設計し創造した神があるに違いないと考えて、神の存在を断定したりすることを私たちはいたします。すなわち、私たちは自分のよっては神の存在はおろか、その不在も確かめられないということを忘れたり無視したりして、きわめて軽率に神の存在や不在を断定しかねません。
そのことがパウロの言う「不義をもって真理をはばむ」(ローマ人への手紙1:18)ことです。
またそのことが「神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せる」ことです。またそのことが「神の真理を変えて虚偽となし、創造者の代わりに被造物を拝み、これに仕える」ことです。
神は見えない存在であり、人間の知解に余るお方であるのに、人間の知恵でその存在を確かめることができると信じて有神論を唱えたり、人間の視野や認識能力の中に神の姿が入ってこないという理由で無神論を主張したりすることは、まさしく、神を被造物化することであり、被造物を神に祭り上げて人神を誕生させることになります。
愛の戒め
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は手のわざを示す」(詩篇19編)
詩篇の記者はこのように歌っていますが、大自然が神の栄光をあらわしみ手のわざを示すのは、それにキリストの光を当てて見直す時です。
キリストにおける神の啓示の光を当てて見直し、読み直すことがない限り、自然の素晴らしさはわかっても、それが神のみ言葉やみ業の素晴らしさであるかどうかはわかりません。このことは律法についても言えます。
律法そのものが姿を現すのは、律法にキリストの光が当てられた時だけです。預言者の言葉も律法も、来るべき主キリストを指差しキリストに導くための予備啓示のようなものです。従ってそれはキリストの光のもとでしか真実の姿を現しません。
パウロは「律法の全体は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』というこの一句につきる」(ガラテヤ人への手紙5:14)と述べます。愛の戒めが律法の中心だと言うのです。
ですから愛の戒めを理解し、愛の戒めに従って生きることができれば、律法は確立されます。では、私たち人間に愛の戒めに従った生き方をすることができるでしょうか。それはできません。それができるくらいなら、人間は罪人ではありません。
罪のない人間に、贖いの必要がどこにありましょう。贖いを必要としない人間に、キリストは要りません。要らないから十字架にかけて殺したのです。
神の行為死
罪は一種の負債です。自ら多くに負債を負うている人が、人の負債の肩代わりをすることはできません。人の負債の肩代わりをすれば、自分の負債が払えなくなるか、新たな負債を負うことになります。
ですから、罪のない者が罪人の罪を引き受けて、罪の支払う報酬としての死を受け取るときだけ、人を罪としての束縛から解放することができるのです。
では、人間の世界に罪のない人がいるでしょうか。姦淫の現場から連れてきた女性をイエスの前に突き出して「この女を石で打ち殺してよいか」と尋ねた人たちに、イエスは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書8:7)と言われました。しかし、石を拾ってその女性に投げつけた人は一人もいませんでした。
罪のない人は彼らの中にも、私たちのなかにもいません。罪のない者といえば、神をおいてほかにありません。神の死などという言葉は恐ろしく背信めいた響きをもっていますが、実は、神の死のみが唯一の行為死です。
神が人となり、人の罪を自らの罪として引き受け、その罪のための裁きを受けて死んでくださることでしか、人は罪と罪の代価としての死の支配から解き放たれることはできません。
罪と罪の支払う報酬としての死からの解放は、イエス・キリストにおいて行われた神の行為死によってのみ現実となります。
永遠の今の生活
一人前の大人が、苛烈な、また非情写実生活を営んでいながら、ひとたび歌劇場の中に入ると別人のようになってしまう。あたかもクロークに帽子と外套をあずけるとともに、いつもの理性、日常の自己をすっかり脱ぎ捨ててしまって、王様みたいにぜいたくな気持ちになって座席につく・・・そしてはばかるところなく感情の奴隷になってしまう。(ベルトレド・ブレヒト)
これは『古い帽子』や『三文オペラ』で有名なベルトルド・ブレヒトが、芸術と世俗の分離に基づく創作行為を批判して述べた言葉です。
このようなことは、キリスト教が政治や文化にまで浸透していない、わたし達の国の教会の中でも起こる現象です。ふだんは一般の人々と選ぶところのない非キリスト教的な生活をしていながら、日曜日が来て礼拝堂に入ると途端に信心深い信者に早がわりする。しかし礼拝が終わって教会を出ると、一般社会の人々と少しも変わらぬ生活に戻る。すなわち一週168時間のうちわずか1時間か2時間だけ聖域にいて、あとは俗域で過ごしているのに、世俗を危険視したり非難したり、裁いたりする人々も現れる。
わたしは人間を善人と悪人に分け、善人とは交わるけれど悪人とは交わらないようにつとめるのが正しい信仰生活であるとは思っていません。また場所を聖域と俗域とに分けて、聖域には足を運ぶけれど、俗域にはなるべく近づかないようにするのが信者のつとめであるとも思っていません。時間を神聖な時間と俗悪な時間に分け、神聖な時間には身を置くようにつとめるけれど、俗悪な時間帯からは出来るだけ遠ざかるのが信者のつとめであるとも思っていません。
ある人を特別視したり、ある空間や時間を神聖視したりしますと、わたし達の信仰生活がその人の前にいる時だけのものになり、その時間とその場所にいる時だけのものになる恐れがあります。
イエスがユダヤからガリラヤに帰る途中、サマリヤの井戸の所で休まれた時、一人のサマリヤの女性の問いに「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る・・・神は霊であるから、礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:19-24)とお答えになりました。
神を礼拝するのに、ここでなければならないとか、この時間でなければならないということはありません。ふだんは世の人々と変わりない生き方をしているから、せめて聖日くらいは教会で過したいという考えは、教会の集まりを賑やかにしたり、教会の経済力を培ったりするには役立ちますが、信仰の確立にはあまり役立たないばかりか、偏見や差別を正当化することにもなりかねません。また、わたし達を迫害する敵をさえ神さまと思い込んでしまいかねません。
「この小さい者の一人に」奉仕するのが神奉仕であり、神礼拝なのです。讃美は神に捧げる信者の歌であると言って独占することこそ、もってのほかの背信行為です。