top of page

​山本三和人牧師

MESSAGE

山本三和人牧師によるショートメッセージをご紹介します。

女と男

​1963年5,17「ろばのみみ 7」から

「泣いた女が馬鹿なのか」 「だました男が悪いのか」

これは、「東京ブルース」という歌の冒頭の詞です。むろん、女性の立場からうたったものです。これによりますと女が善良で、弱くて、男にだまされて泣いて歌ったものです。男は悪くて、非情で、弱い女を泣かせてばかりいるみたいです。

Nという女性歌手がちょっとハスキーな声で歌っているのがこの歌がどこからともなく聞こえてくると、男としては、「何を勝手なこといっている」と、いいたい気持ちになります。


しかし、永い歴史の中で男が女性に与えてきた不当な取り扱いのことを考えれば、こんな歌の二つや三つくらい作られて歌われたからといって、別にどうということはない、と思います。

私たちが子どものときに聞かされて、今でもよく覚えている『舌切雀』の話の中では、男は親切で善良な人間に性格づけられていますが、反対に女は非情で、残酷で、欲張りとして語られています。

東洋では、伝統的に女性は一個の主体性を持った人間としての取り扱いを受けませんでした。「女のくせに!」といって、その発言がしりぞけられ、社会的な参加が認められませんでした。ことあるごとに、「女は三界に家なし」といわれ、「幼くして親に従い、嫁して夫に従い、老いては子に従うべし」と、生涯、服従を強いられ、「十方におわす諸仏も、女人をば成仏せしめ給うを得ず」と、きめつけられてきました。

これは東洋だけではなく、西洋でも同じでした。『パンドラの箱』という話の中では、パンドラという女の子の好奇心と虚栄心が大きな災禍を招くようになっていくのですが、その最初の犠牲者は、何も知らない善良なボーイ・フレンドのエピメシアスです。

また西洋の童話を読んでいると、たびたび悪や災厄の象徴として魔女が出てきますが、「魔男」は出てきません。反対に、天使はどれも男の姿をして出てくるのです。こういうことは、男と女の平等を説いているキリスト教の聖書でさえ例外ではありませんでした。

旧約聖書の『創世記』の初めの話は、神さまに造られた最初の人間はアダムという男であり、女はその孤独を慰め、男の不自由をなくし、男の仕事を助けるためにーつまり、男の幸福達成の手段として、そのアバラ骨の一本でつくられた、と書いてあります。言い換えれば、「男は神のために存在し、女は男のために生きるようにつくられた」と記してあるのです。どうもここでも女性の主体性は認められていないようです。

ローマ帝国の暴君といわれたネロは、あるとき数百人の学者を宮廷に集めて、「女に魂があるか」という問題を討議させたそうですが、永い熱心な討議の後で、衆議一決した結論は、「女には魂がない」ということだったそうです。これだけではなく、聖書はさらに女を悪者に仕立て上げます。

男の喉の部分にある突起を、「アダムズアップル」といいます。創世の初め、エデンの園に住まわせたアダムとイブの二人に対し、神さまは<自由と禁令>を一つづつ与えました。


 「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」ーこれがその自由です。
 「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」-これがその禁令です。

アダムは神を信じ、その戒めを重んじていましたから、神さまのことばの枠の中での自由に満足していました。しかしイブは、蛇<虚栄という意味>にそそのかされ、禁断の木の実を取って食べてしまいました。

それがよほどおいしかったとみえ、イブは夫のアダムにもその一つを差し出して、食べるようにすすめました。アダムはもちろん、「いやだ」といったのですが、イブは、「あなたは私と神さまとどっちが大事なの」といって、夫の愛を試しました。
アダムは心から妻を愛していましたから、結局はイブのことばに従って、とうとう木の実を一つほおばってしまいました。

そのとき、アダムの背後から、神さまが、「アダム!」と呼びかけました。驚いたアダムは、口に入れた木の実を喉にひっかけてしまったのです。その木の実が、今でも全ての男の喉のところにある突起物となって残っているので、これを「アダムズアップル」というのです。

 

この話のように考えますと、男の喉の突起物は、男の小心さと良心の健在を示すことになり、女の喉のなめらかさは、女の大胆さ、あるいはふてぶてしさを表す証拠だ、ということになります。

 

女はこのように悪であり、罪深いものでありますから、「子を産む苦しみが与えられ」、一方では、「会堂の中にて黙すべし」といって、永い間、公衆の面前での発言が許されませんでした。とはいえ、「たとえば女性には、室内で帽子をとらなくても良いという特権がる。あれは女性が優遇され、特権を与えられている証拠ではないか」という人がいるかも知れません。

 

そうではないのです。あれはパウロの、「女は教会の中において帽子をかぶるべし」ということばからきたもので、「かぶっても良い」というのではなく、「かぶらなければならない」という意味です。もっとはっきりいってしまえば、「女の髪は汚れているから、人の集まる場所ではそれを帽子でおおいなさい」という意味です。つまり、室内で女の人が帽子をかぶっているのは、自分の醜さと、罪を認めていることになるのです。

 

こうした男尊女卑の考え方に終止符を打ったのは、なんといってもイエス・キリストです。パウロは、「男は女より出でずして女は男より出でたり」といったすぐ後で、「されどキリスト・イエスにおいてはユダヤ人もギリシャ人もなく、自由人も奴隷もなく、男も女もなく、みなイエス・キリストにおいては同じ人間である」といったのです。

 

旧い歴史の終わりを意味するキリストの十字架上の死に立ち会った最後の人間は、女性のマリアであり、新しい歴史の発端を意味するキリストの復活に遭遇し、そのよみがえりをいち早く伝えた最初の人間もまた、女性のマリアであったことは、周知の事実です。

 

また、それまでの英雄主義的小説が影をひそめ、キリスト教文学があらわれてくると、女性が男性に代わって物語の中心的位置につきはじめました。

 

たとえば、ゲーテの『神曲』に出てくるダンテの霊はピアトリスの霊に導かれて天界に上がり、ファウストは、「とこしえに女性なるものに依って」いと高きところへ引き上げられ、ドストエフスキーの『罪と罰』では、罪を犯したラスコリニコフが、夜の女ソーニャの励ましと口ぞえで更生の道につくのです。

 

日本においてもかつて、キリシタン禁制が解かれて外国の宣教師が長崎に教会の建設をはじめたとき、「マリア様の御座所はどちらですか」と尋ねて行った最初の日本人は、名前も定かでない三人の女性であったと伝えられています。

 

まことにイエス・キリストこそ女性の解放者、「レディズ・ファースト」の真の実行者だといえると思います。
 

私は聖書を紐解くたびに、いつもそのことに思いを寄せているのです。

​噴火山の女

イタリアのマニアニが演出した「噴火山の女」という映画に旅役者を追って村を出た女性が捨てられ、傷ついて故郷に帰ってくる場面があります。彼女は傷ついた心に主の慰めを得ようと思って教会へ行きますが、黒い服を身に着けた婦人たちが、教会の入口を塞ぐように立ちはだかって、彼女に冷たい視線を浴びせます。

彼女は、石畳のうえにくずおれて、泣きながら「ここでいいです。主の愛はここにも届きます」と言って主の慰めを祈ります。

さて、わたしたちは「おりを得ても得なくても、みことばを宣べ伝えるように」召されて信仰生活を営んでいますから、自分で意識して自分を閉ざしたり、世を締め出したりするようなことはいたしません。しかし、知らず知らずのうちに、環境世界から孤立するようなことがあります。「信仰を守るために」という理由で世から孤立することがあります。

「過ぎたるは及ばざるがごとし」という格言がありあmすが、過剰な信仰意識や召命意識や選民意識は、「信仰を守るために」という理由から得てして信仰者に閉鎖的な姿勢をとらせます。その結果、ほんとうに主の愛と慰めと励ましを必要とする人を、教会の外に締め出しでしまいます。

 

わたしたちは、わたしたちを包む環境世界に向かって開かれなければなりません。そのためには、わたしたちのいだいている信仰意識や召命意識や選民意識が、どのような理由からしても自分を閉ざしたり、まわりの人々を締め出したりする口実にならないように、注意しなければなりません。

 

「信仰を守るために」という信仰意識は、信じなければならないもの(神)も信じていないのです。「わたしは神を信じて断じて疑わない」というような人は、自分のからだの、恐らく胸(心)か腹(意志)か、すなわち絶対依存の感情か道徳意思の働きで、そのように信じているのです。

 

「自分は神を信じていないと思っている人よりも、「自分は絶対に神を信じていると思い込んでいる人のほうが、より大きな過ちを犯す」とは、K.バルト教授の言葉です。前者には初めから神を信じていませんから、神でない神を拝むようにあんる機会が少ないのですが、後者には神でない神をつくって拝む危険性が沢山あります。

 

自分の宗教心を絶対化する人が、自分を人神に祭り上げるのに時間はかかりません。それは神への信仰や神の選びを、人間的に条件づけるからです。自分には神の召命や選びに値する値打ちがあるからと神に召され、神に選ばれたと思いがちだからです。その思いは独り善がりのうぬぼれと特権意識に導きます。
 

ユダヤ教徒やパリサイ主義者たちがそうでした。

 

わたしたちが、わたしたちを取り巻く環境とそこに住む人々にたいして開かれた教会を形成するには、まず、わたしたちが環境世界に向かって自分を開かなければなりません。一切の偏見と差別をなくし、すべての人と平和的に共存しなければなりません。

 

神の召命や選びが、天職意識と平等意識を伴う人類平等の土台であるという認識に立つことが必要です。かりにも教会の入口に立ちはだかり、石畳の上で泣き崩れて祈る彼女に、冷たい視線を浴びせかけるようなことがあってはなりません。

人と言葉

聖書の中に「初めに言があった。言は神とともにあった。」と書いてあります。ここにある言(ことば)というのが、原語ではロゴスという言葉であります。

 

言葉とは表現の手段でありますが、神の場合には、神の言と神の人格とが完全に一致しているというのです。ちょうど同じ長さの半径で描いた二つの同心円のように、神の言と人格とは寸分のずれもなく、ぴったりと重なり合っているというのです。

 

そうであればこそ、これこそ私たちの人生の目標であるということができます。なぜなら、「人と言との完全な一致」、何と素晴らしい目標ではありませんか。

 

人間の場合は、言葉と人との間には大きな開きがあります。イギリスの有名な桂冠詩人テニスンは、「言葉は思いの半ばを隠す」と言いました。テニスンほどの言葉の達人でも、自分の思いや感情をありのままに、あますところなく、表すことができませんでした。

 

言葉に表現される「私」と「私自身」との間には、深いみぞがあります。否、そこには何の関係もないことさえあります。作家(人)と作品(言葉)との関係において、両者は元来一つであるべきだと思われますが、実際には二つが分離してしまっていることが多いようです。

 

すなわち、作家の自己表現であるべきはずの作品が、作家の「在り方」や「本質」とは無関係になっていて、作家はそれが作品であるというただそれだけの理由で、作品に対する責任から逃れている場合さえあるのです。大変むずかしいことを言いましたが、とにかく、人は言葉の研究の責任から自由ではありません。せまい意味での言葉(たとえば日本語とか英語)はもちろんのこと、広い意味での言葉(たとえば人間の姿勢、在り方、行為など)の研究に励まなければなりません。

 

私たちは人間でありますし、人間の力には限りがありますから、「言は神なりき」というような具合にはいきません。いくら努力しても、人と言葉の間のずれは残るでしょう。

 

ある詩人が詠ったように、言葉は矢弦をはなれた矢のように口から飛びだしていって、誰かに突き刺さります。そして、人を失望させたり、力づけたり、生かしたり、殺したりします。

 

私たちは、まず自分の姿勢を正し、「在り方」を確立し、正確な表現の手段すなわち「言葉」を身につけて、「言葉は人なりき」という「人と言葉との一致」という、大理想実現のために努力しようではありませんか。

すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。

ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある。

 

「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。

善を行う者はいない、ひとりもいない。

彼らののどは開いた墓であり、彼らは、その舌で人を裁き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」                            (ローマ人への手紙第3章9-18節)

 これは神の目からみた人間の現実の姿です。人間の中には悪人もいるが善人もいるというのは人間の判断です。神の絶対的な要請を一つ残らず完全な形で満たしている人など、一人もいません。 神を信じ、神の戒めに日夜接していながら、どうして人間のこの罪の現実がみえないのでしょう。

 

もし私たちが、この悲しい人間の現実についての認識を与えられていますなら、狭い門から入って、細い道を行く人の群れの中に身を置いたりして、山羊の群れを裁いたり大きな門から入って細い道を歩く人々を裁いたりすることが、信者たちのなすべきことでないことがわかります。(『共存の道』31)

「二重決定論」とは、救いに選ばれる者と、滅びに選ばれる者とが神によって予め決定されている、という主張を言います。宗教改革者たちが唱えた「予定説」または「予定論」がその理解を誤ると、教会の人々に宗教的な偏見や差別の思想を抱かせ、世の人々との共存を妨げることになる場合があります。私たちが同じ過ちを犯すことがありませんように、教会の犯した過ちを振り返ってみたいと思います。

 

予定説を唱えたのは宗教改革者たちが初めてではなく、彼らより一千年以上も前に『告白論』で有名なアウレリウス・アウグスティヌスが、「神の選びが神の予定に基ずく行為である」と言いました。これは彼の思い付ではなく、聖書的な根拠に基づくものでした。エレミヤが聞いた主の言葉とか、パウロの言葉(ローマ人への手紙9章11-13節)などが、アウグスティヌスを「神の選びが神の予定行為」であるという考えにいたらしめたのです。

 

パウロの「まだ子どもらが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、(人間の)わざによらず、召した方によって行われるために」(ローマ人への手紙9:11)という言葉から明らかなように、神の選びは神の自発的な、そして無動機的な愛に基づいて行われるものであって、決して人間の「わざ」に条件づけられたり、動機づけられたりするものではありません。宗教改革者たちもまた、聖書の伝える神の選びをそのように理解した上で、神の予定行為と主張したことと思います。

 

しかし、その予定説はその継承者たちを経て「二重決定論」に堕してしまいました。神が誰を救いに選ぶかを既に決定しておられるなら、私たち人間が神のご決定を変えたり覆したりすることはできません。また、神がご自分の自由意志で誰を救い、誰を滅ぼすかをお決めになっておられるなら、私たち人間の中の誰が救われて誰が滅ぼされるかは神だけが知っておられることであって、私たち人間にはわかりません。したがって特定の個人に哀れみをかけたり、自分の救いについて神に感謝したりすることもできません。

 

それだのに、二重決定論的な予定説を唱える人々は、自分たちは救いに選ばれた者であると主張する一方、異教徒や神を信じない世の人々は、滅びに予定されていると信じて疑いません。ですから二重決定論的な信仰をもって教会生活を営む人々は、「聖職的な誇り」と「自惚れ」に陥り、「世俗に対する軽蔑と侮蔑」は手の施しようのないものになりました。

 

この人々の考えによれば、教会と世との共存は、教会の世俗に対する妥協であり敗北でしかありません。恐らくこうした教会の奢りと自惚れの裏には、自分たちが神の戒めを守り、神のみ旨にかなった宗教生活を営んでいるから、神の救いに選ばれたいという思いが潜んでいたことでしょう。また、世俗の人々は神の戒めに背き、不浄な世俗な暮らしをしているから滅びに選ばれたのだという思いが潜んでいたことでしょう。もしそうでありますなら、教会の思い上がりと世俗軽蔑病は、癒しようもないところにきています。

 

聖書がエレミヤの選びについて述べていることや、イサクの妻リベカにつげられた言葉としてパウロが延べている言葉は、このような形の「二重決定論」的な予定論ではありません。「二重決定論は聖書の選びの思想とは無縁である」(キリスト教大事典) と言いますように、その言葉は神の選びが人間の倫理的、道徳的価値判断のようなものに基づいて定められたものでなく、何者にも拘束されることのない、神ご自身の自由な決断に基づいて定められたものであることを証する言葉であって、神がある者を救い、ある者を滅びに予め決めておられることを証する言葉ではありません。

 

私は長く牧師をやっていて不思議に思うことがあります。それは、多くのプロテスタントたちがこのような言葉に接しますと、多くの人が滅びに選ばれていて、小数の人だけが救いに選ばれているという二重決定論を、聖書の伝える福音の真理に基づく論説であると思っておられるのではないか、と思われることです。

 

しかし、聖書の中のこのような言葉で二重決定論を基礎づけようとする試みは、何か人間の現実についての重要な見落としがあるように思えてなりません。

 

たとえば、人間を羊の群れと山羊の群れにたとえたり、狭い門から入って細い道を行く人と、大きい門から入って広い門を行く人にたとえたりしているのをみると、教会の人たちは何時でも羊の群れの中に身を置いて、山羊の群れを裁きます。また、狭い門から入って細い道を行く人々の群れの中に立って、大きい門から入って広い道を行く人を裁きます。このことが偏見と差別のもとになるのです。

 

何故、自分を山羊の群れの中に置かないのでしょう。何故、自分を大きな門から入って広い道を歩く人々の中に置かないのでしょう。私たちは日曜日には教会へ集まって礼拝の時を分かち合いますが、家に帰ったり、職場に行ったりしますと、他の人々と同じ生き方をしています。私たちは他の人々から村八分にされたくありません。皆と同じ電車に乗り、皆と同じものを食べて生きています。

 

どうして狭い険しい道を行く人々の中に身を置いて世を裁くのでしょう。
パウロが次のように述べていることに気づかないのでしょうか。​

予定説ー二重決定論的信仰の過ち

人間はただ神の前においてのみ平等である

(「LOGOS No.01」1989.4 )

人間の平等とは

 

「コリント人への第一の手紙」(これは聖書の中におさめられているパウロの書簡のひとつです)の中に、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに到らなかった。それは、神の知恵にかなっている」ということばがあります。このことばの中に、人間の平等の秘密が語られているのです。人間は知恵も力もちがいますから、人間をくらべて平等の権利を確立することはできません。人間はただ神の前においてのみ平等と言えるのです。

 

「この世は、自分の知恵によって神を認めるに到らなかった」とありますように、どんなにすぐれた知恵をもってしても、神を知るということはできません。

 

自分の知恵や力で神を知り得ないということでは、学者も無学の者もありません。神の前では、学者が学のない者をさげすむこともできませんし、無学の者が学者にこびたり、ひけめを感じたりする必要はありません。もし、学者が自分の理性の働きで神を知り得ると考えて神を探したり、求めたりして神を信ずるようになったりしたら、それこそ偶像礼拝すなわち神ならぬ神を拝することになります。

神の律法
 

このようなことは認識論の領域で言えるだけでなく、倫理道徳の領域でも言えます。律法はその99パーセントを行っても、残りの1パーセントに背いたら、その全部も背いたことになるように仕組まれていますから、誰も律法にある神の要請に応え得る人はいません。もしも自分は律法に忠実な生活をしていると思って、律法主義者のように他を見下し、危険視して他を遠ざける人がいるとしたら、その人こそパウロが言っているように「律法に誇り、律法に安んじる」人であり、神の律法を重んずるかに見えて、実はそれを軽んじている人です。

神の戒めに応えることができないという論では、律法学者もなければ俗人もありません。神の前では、人間はみな同じです。本当に神を信じ、神の律法を重んずる人は、パリサイ人のように世俗を軽んじたり、世俗の人々との交わりを禁じたりはしないでしょう。律法を行うことで自分だけが神さまに清め分かたれていると思っている人だけが、その清さを守るために世の人々をさげすむのです。しかし神の前では人間はみな平等です。

このように人は認識論の見地からも、倫理道徳の見地からも、平等の意識を抱いて偏見と差別の意識から解放されるのは、ただ神の前においてだけです。

神の存在


さて、ここで認識論の領域のことをもう少し詳しく話します。私は神の前では学者もなければ無学者もない、と言いました。しかし自分の知恵で神を知り得ると思っている学者はあまり多くはいあに。もともと学者の多くは神など信じてはいませんから、神を知ろうとも探そうともしません。しかし、ここで是非、注意していただきたいことは、神の存在を認めて自分の知恵の働きでこれを知ろうとする人も、神の存在を認めないで、神を知ろうとすることは馬鹿げたことと思う人も、全く同じことをしているということです。

もともと神は霊であり、人間の理性の働きで探し当てたり、認識したりできるものではありません。ですから、神の存在について肯定的な考えを持ったとしても、それを実証することはできません。しかし、実証の手続きを取らないで主張する有神論には最低の学問的確かさもありません。

 

これと同じことは無神論についても言えます。神は霊であって人間の理性の働きではその存在を確かめることもできませんが、その不在を確かめることもできません。神の不在についての実証手続きを経ないで行われる神の不在についての主張には、学としての確かさなど少しもありません。ですから、オーギュスト・コントー派の実証主義者たちは、神の存在については肯定的な見解も否定的な見解も述べませんでした。

 

ポール・サルトルもまた『唯物論と革命』という論文の中で、「唯物論者は、唯物論は無神論であると主張することによって、唯物論のまとうている学としての衣を自らの手でやぶっている」と述べています。どうしてでしょう。唯物論は厳密な意味での学である。しかし実証することのできない神の問題をその中に取りこむことによって、その実証主義者としての一貫性を失うというのです。従って、その中に神を取りこんではならないという点では、観念論も唯物論も同じです。

 

人神化の危険
 

ですから、キリスト者が唯物論者のことを無神論者だと言ってこれを敵視してこれに戦いを挑むのも、また唯物論者がいるかいないか分かりもしない神を信ずることは非科学的であり、馬鹿げたことであると言って宗教や宗教を信じる者を敵にまわして戦うことも、偏見と差別の思想にもとづくことであり、決して正しいことではありません。正しいのは何時も自分であり、間違っているのは常に相手であると思うことは、自分の思想や主義を絶対視することであり、自らを人神化することであります。

 

こうして形成された人神がまわりの者に服従を要請し、その要請に従わぬ者に裁きの鞭を振るようになれば、冷たい戦争や熱い戦争に発展し、地球上の全生物の未来が奪われることになります。ですから自分を人神化することだけを絶対にしてはなりません。

平和的共存
 

しかし、先のパウロの手紙の中で彼が「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵の愚かにされたではないか」と叫んでいるのを聞いた人の中には、パウロもまた知者や学者などに対してある種の偏見を抱いていたと思う人があるかもしれません。しかし、パウロはギリシャ哲学を身につけた学者ですから、同じ学者に対して偏見を持っていたとは考えられません。

パウロは、同じ書簡の中で「いったい人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の霊以外に知るものはいない」とのべています。すなわち人のことは人にしかわからないように、神のことは神にしかわからない。知者や学者が学のない者よりも、神についてより多くを知っているなどということはできないということであり、それは知者や学者の無学の者に対する偏見を戒めたことばです。

 

私たちが今おかれている世界のこの状況の中で、最も大切なことは、人類からその未来を奪うことにつながる争いのもとになるような言動を慎むということです。民族的偏見も、職業的偏見も、男女の性的偏見も、またイデオロギーや宗教的偏見も、今この世界の状況の中ではあってはなりません。平和的共存の道だけが私たちの歩むべき道です。

​神の真実が見えるとき

(「LOGOS No.11」1990.4)

「家からでかけることは、必ずしも必要ではない。机についたままで、耳をすますのだ。いや待つこともない、ただじっとひとりでいるのだ。そうすれば、世界は自分の仮面を脱いでくる。」

(フランツ・カフカ)

ここに「仮面を脱ぐ」とあります。善人づらをしている悪人が、なにかの折に正体を現したりする時に、「仮面を脱ぐ」と言いますが、ここでは、ただ真実の姿を現すということで神学の用語では「自らを啓示する」という意味に使われる言葉です。

神さまが仮面を被って、その素顔を隠しておられるというのではありません。神さまに仮面を被せているのは私たち人間です。私たちが、自分の願望や期待で描いたり作ったりした仮面を被せて、神を見ようとしているだけのことです。別の言い方をすれば、私たちの目が、主観の結ぶ幻想に遮られて、真実が見えないのです。

 

一切の人間の主観を交えないで、受動的な姿勢を整えて待てば、人も世界もその真実の姿が見えてくるというのです。私たちが、その中にあってその与える物によって生きている人間の世界でさえ、求める者には真実の姿は見せません。まして神においておや、です。

 

神は人間の夢や、理想の実現を目指して求めたり、待ったりする者には、決して自らを啓示なさらないし、語りかけてもこられません。たとえ啓示されても、語りかけてこられても、主観の幻想に遮られている私たちには、そのお姿は見えないし、そのお言葉は聞こえません。

(「LOGOSNo.37 」1992.11)

真理の独占

Were you thereWhen they crucified my Lord ?Were you thereWhen they crucified my Lord ?Oh! sometimes it causes meTo tremble, tremble.tremble.Were you thereWhen they crucified my Lord ?

この黒人霊歌は、彼らの自己反省の歌と思われるが、人々が主を十字架につけた時、その人々の中に自分もいたのではないかという反省がわたしを身震いさせる、と歌っているようだ。

人間はある特定の宗教を信じるようになると、得てして真理や愛を独占したがるものだ。自分だけが本当の神についての真理を認識していると思いたがる。従って自己批判より他者批判に熱中するようになる。その結果は人間の世界に不和と争いをもたらす。

 

神がアダムとイブをエデンの園に住まわせて、どの木からでも心のままに取って食べてもよいが「善悪を知る木からは取って食べてはならない」と戒められたのは、神についての真理の独占を禁じる戒めと言ってよい。つまりそれを食べると、何が善であり何が悪であるかを自分だけが知っているという自信に導かれ、自己批判より他者批判に真剣になり、人間の世界に不和と争いの種を撒き散らすようになるから、そういう知識とその知識に基づく誤りと信だけは身につけてはならない、と言う戒めである。

 

この戒めの正しさは、人類が、そしてキリスト教会が綴ってきた歴史をみればよく解る。病や貧しさ故に悩み苦しむ人々に、自分のすべてを捧げつくされたイエスをゴルゴダの丘に引き立てて、釘づけにして殺したのは誰か。真理を独占したユダヤ教の指導者とその影響を受けた人達であった。善良なキリスト者を厳しく審問して異端や魔女に宣告し、多くの人を薪火によって焼き殺したのは誰か。真理を独占した教会の指導者たちとその影響を受けた人達であった。また、600万人のもおよぶユダヤ人を瓦斯室に送り込んで、あたかも害虫で、駆除するように殺したのは誰か。やはり真理を独占したヒトラーであり、ゲシュタポたちであった。

 

心の耳をすまして聞いていると、歴史の闇の底から、真理を独占した人達の手によって命を奪われた無数の人々の悲痛な叫びの声が聞こえてくるようだ。そして、加害者の中に、自分もいたのではないか、という反省を呼ぶ。

1993年、新年メッセージ (「LOGOSNo.39」1993.1 )

キリストにある一日は千日にまさる

「時とは何か、誰も問わないならわたしはそれを知っている。しかし誰かが問うて、これに説明を加えようとすれば、わたしは何ひとつ知らない」

 

これはアウグステイヌスが『告白録』に書いている言葉です。時間、それは誰でもが持っているもの、否、誰にもあるもの、その意味で誰でもよく知っているもの、だから誰もあえて問おうとはしないもの、だから知っていると思いこんでいるもの、しかし、誰かに「時間とは何?」と聞かれて、それをわかりやすく説明しようとしてみると説明が出来ないもの、すなわちわたしたちがなんにも知ってはいないもの、それが時間です。

 

彼は時間を過去と未来と現在に区切って時間の本質を時間であり完全に存在の領域から姿を消したものゆえ「無」であり、未来とはまだ存在の領域に到達しないものであるから「無」である。そして現在とは今の存在が無限に分割される限り過去と未来となり、瞬間としての現在もまた「無」に帰します。過去は無であり、未来もまた無であり、無と無の間に介すると考えられる現在もまた無であると言います。

 

時間が無であるということは「人生は無である」ということです。なぜかというと「時間は人間の存在様式」だからです。詩篇の記者は、「あなたの目の前には千年も、過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです」(90篇4節)とうたい、またハイデッガーは「生とは無意味と空虚とより来る根源的な不安である」と述べています。では、人類は生の空しさを知るだけでその空しさを克服することは出来ないのでしょうか。

 

この無からの脱出の道は二つあります。一つは自然の一部に自分を見出し、生物界の法則に身をゆだねて生まれてから死ぬまで生きればよいのです。死をおくらせる必要もないし死に急ぐ必要もない。他の動物のように本能だけで生きればよいのです。もう一つの道は、この人生や時をその内側から改造することが不可能であるとしても、外側から有意義なものにつくりかえることが出来ることです。つまり全く〈ゼロ〉に等しい人間の生の裏側に、神の保証があるという認識です。

 

聖書は「神は独り子を賜うほどにこの世を愛し給えり」と伝えます。キリストにおいて世に来たり給うた神は「時は満てリ」と宣言しました。
今まで無意味であった時が、意味を与えられたと言うことです。ですからキリストによらざる歴史の中では「千歳もすでに過ぐる昨日の如し」でしたが、パウロは
「人もしキリストにあらば新たにつくられたるなり。古きは過ぎ去り、見よ新しくなりたり」と叫びました。

 

詩篇の記者は「エホバの大庭に住まう一日は千日にまさる」とうたっています。「エホバの大庭」を新約の光に照らして解釈するならばキリストということです。故に「キリストにある一日は千日にまさる」という意味にとれます。

 

1993年はキリストにある年であるように、キリストにある神のめぐみを冠として戴く年であることを深く自覚して歩みたいと思います。

前のページへ ≪          

JOIN US IN WORSHIP!

開かれた自由な教会を目指して

ADDRESS

〒193-0934

八王子市小比企町1673-2

PHONE

042-636-2811

© 2025 by 日本基督教団ロゴス教会

bottom of page